人生最後の買い物 胡椒挽き

気まぐれなシリーズ化ができれば上等なテーマである。

還暦もとっくに過ぎて、この夏の「藍染・小千谷縮」のジャケットをなんだかんだ2着も購入したら、伝統的工芸品と言えるような、「上質」を今更ながらに手に入れて、その製品寿命から、人生最後の買い物、という感覚が生まれた。

今回の買い物は、胡椒挽き(ペッパーミル)である。

まだ20代だった頃、新婚のお祝いに頂戴したデパート商品券で、フィスラーの圧力鍋と日本製の胡椒挽きを一緒に購入した。
鍋の方はパッキンの交換をしただけで、いまだに現役だ。
記憶によれば、当時で3万円超の高級品だったけど、商品券だから決断できたのである。

それでも、30年以上も使っていて、なんのトラブルもないのはさすがで、もう1年あたり1万円を割り込んだから、それなりのお得感があるのは間違いない。

しかし、胡椒挽きの方が、引っかかりもなくクルクル回りだしたのである。
当時、いちいちかんがえてこの手の製品を買うことがなかった。
あとから、プジョーの胡椒挽きが世の中に君臨しているのをしったけど、今度は需要の方がなかった。

それでも人間は面倒くさがるもので、台所と卓上の二箇所に置きたくなって、やっぱり誰かに頂いた商品券で、プジョーの電動ミルを、贅沢にも岩塩用とセットで購入した。

フランス人の発想は、いまだによくしらないけれど、カイロにいたときの誰かが乗っていた自動車がプジョーの高級車で、調子が悪いといってボンネットを開けた時の驚きは今でも覚えている。

日本車だと隙間があって、スカスカしているのは、衝撃に対してのクッションも果たすように設計されているのだろうが、このヨーロッパ車はスパゲッティのような配線がエンジン周りにへばり付いていて、一見してなんだか複雑に見えたのである。
これを、エジプト人のメカニックが顔を突っ込んで何やら作業するだが、元に戻せるのか?が心配になるほどであった。

当然だが、こんな昔話がいまも通じるとは思わないけど、大枚払って乗る車ではないと、妙に確信したのである。

しかししながら、変速機のギアを作る技術で、胡椒挽きを作ったプジョーは、美食大国フランスのお国柄としてすんなり納得できた。
とはいえ、電動の胡椒挽きのメカニックは、やっぱりどこか日本人のセンスとはちがう妙ちくりんなのだ。
スイッチを入れるとライトが点いて、目的のエリアを照らすのは確かに便利なのであるが、単三の電池を6本も使うのは、胡椒を挽くのにトルクを要するからだろう。

それでも、懐中電灯のような内部の作りは、100年前の設計ではないかと疑うのに十分な稚拙さに満ちている。

おそらく、超頑丈なギアが刃として使われてはいるけれど、それ以外はぜんぜん考慮されていないのかもしれない。
胡椒用と岩塩用は、若干のちがいしかない形態で、粒の荒さ調整のちがいほどしかないのではないか?
そんなことを素人が云々してもせんないが、塩は蒸発する、ということに気がついたのである。

おそらくヨーロッパではあり得ない湿気と夏の気温によって、大粒な岩塩も気化してしまうのだと思われる。
それが、電池を腐食させて、液漏れを誘発し、接点がイカれて故障するのである。

だから、我が家では岩塩用のミルは、いつも電池を抜いていて、すぐには使えないオブジェになっている。
もちろん、電池室にも悪影響するので、岩塩も抜いている。

そんなわけで、岩塩用には、セラミックス製のミルを別途購入して、こちらはいまだに健在である。

さてそれで、人生最後の胡椒挽きの買い物をどうするか?だ。
もちろん、電動ではない手動のものが欲しい。
それで決心して、横浜のデパートに向かったら、電動のタイプしか在庫がなかった。

手動のものなら、ドイツメーカーのコーナーだと案内されたが、それがまた、セラミックス製のものだった。

プジョーのライオンマークが刻印された、ゴツい胡椒挽きが欲しいのに。
でないと、人生最後の買い物としての意味が薄くなるような気がしたのである。

だったら、トヨタとか日産とかの胡椒挽きはないのか?と文句の一つもいいたくなるが、商品券で買いたいから、実店舗でないといけない。

とうとう横浜の衰退は、胡椒挽きも東京・日本橋界隈に行かないといけなくなったのか?
なんだか前に買いだめした、ホワイトペッパーが、泣いているような気がしてくる。

そういえば、人間は年にどれほどの粒胡椒を消費するのだろうか?
もう十分な量があるのか?足りないのか?

人生最後の粒胡椒を買うのはいつなのか?が気になる昨今なのである。

世界の「極右」台頭

アルゼンチンに続いて、オランダでも、「極右」が選挙で勝利した。

それでもアルゼンチンのミレイ氏が、真性なのか偽装なのか?が疑われるのは、かつて世界経済フォーラムと関係していて、選挙中もウクライナ支援それにイスラエルとの関係重視を断言していたことに起因する。

BRICsへの加盟招待も、毅然と拒否を宣言したので、ロシア大統領府は、「今後大統領に就任してからの発言に注目し判断する」と述べたことを20日のロイターが伝えている。
なお、同記事でプーチン氏はミレイ氏に祝意を表した、とある。

ロシアにして、様子をみて見きわめたい、ということだ。

一方、オランダは、そもそもあと2年ほどもある任期を前に、ルッテ政権が崩壊したことが原因の選挙であった。
ルッテ氏は、まだ56才だが、そのまま政界からも引退すると表明したのは、潔い。

彼は、もともと保守系とみられていたのに、やっぱり世界経済フォーラムの配下にあって、グローバル全体主義を推進させられるはめに陥ったのである。

逆神のマスコミは、積極的だった移民政策が致命傷のごとく書きたてているようだけど、じっさいはそれだけのはずはない。
むしろ、オランダの破壊が、国民からの信頼の失った最大の「犯罪」なのである。

しかし、「オランダ」とはどんな国なのか?をよくしらないと、はなしはここでいったん終わる。

江戸幕府が長崎の出島で、唯一の交易国としたのは、オランダがすでにプロテスタントの国になっていたからだ。
秀吉が切支丹追放令を出した、切支丹とは、カソリック(スペイン・ポルトガル)のことである。

この両国は、ローマ教皇と三角契約を結んでいた。
それが、1494年の「トルデシリャス条約」である。
これで、北アメリカはスペイン(後にメキシコ)、南米にはポルトガルのブラジルという境界ができた。

発見されるだろうあたらしい土地についての境界を、「教皇子午線」として定め、西経46度37分としたのだ。
これで、1500年に発見されたブラジルがポルトガル領となった。

それから、英国が1588年にスペイン無敵艦隊を破って、パワーバランスが激変して、いまの世界地図の下地ができたのである。
ブラジルを除く南米大陸は、この間にスペインのものになっていた。

しかして、教皇(カソリック教会)にとっては、スペインだろうがポルトガルだろうが、かならず「ローマ・カトリックの布教」としての教皇領を捧げるという意味になるので、まったく損はない取り決めだった。

だから、宣教師がはじめにやって来て、布教と交易をして安心させながら、最後は軍がやってきてその土地を占領するというパターンになったのである。

そのスペインの飛び地が、オランダだった。

しかし、フランスを挟んで北にあるオランダは、ずっと近いドイツのルターの影響から、プロテスタントに宗派変えすることになって、分離し、独立する。
これが、オランダ独立80年戦争で、ヨーロッパ各国が落ち着いたのが、「ウエストファリア条約」となったのだった。

いまのEUを根本から支えるのが、「ウエストファリア体制」だから、昔話ではすまない。

さらに、ヨーロッパが面倒くさいのは、王家を含めた諸侯が血縁で結ばれていることで、「血で血を洗う」おぞましさは、横溝正史のドロドロどころではない。

加えて、オランダ王室は、「女系」という面倒をかかえている。
さいきん、英国もエリザベス2世の後を継いだのがチャールズ3世なので、女系になった。

序列の順番を(わざと)まちがえるひとたちは、世界の序列第一位のわが皇室も女系がいいというのは、「国体」の破壊工作なのである。

さてそれで、オランダ「王配」として特筆すべき人物が、ベルンハルト・ファン・リッペ=ビーステルフェルト王配殿下である。
ユリアナ女王の夫君であり、ベアトリクス女王の父君でもある。

しかし、この御大は、「ビルダーバーグ倶楽部」の創始者にして、婚外子を多数設けた人物で、その養育費を自腹捻出するのに、ロッキード事件にも巻きこまれて失脚した、お騒がせの人物なのだ。

「国際」がつく怪しげな機関、世界自然保護基金 (WWF)とか、偽善者の集まり、「国際ロータリークラブ」も設立した、張本人だ。

そんな、グローバル全体主義者の代表が君臨したオランダで、「極右」政権が誕生するとは、そっち方面からしたら、なかなかの事件なのである。

ただし、いまのマスコミが書き連ねる「極右」とは、ナショナリズムのことだから、マスコミの立ち位置の「極左」度合いがわかるのである。

どちらも「極」がつけば、グルッと一周して同じ穴のムジナである。

しかし、ナショナリストはグローバル全体主義にあくまでも対抗するので、やっぱり「極」をつけるのはまちがっている。

もう我慢できなくて、極端な政策をとるように各国の配下政治家に命じる、ビルダーバーグ倶楽部やその下の世界経済フォーラムが、かなり焦っていることだけは、確からしい。

これはまた、わが国でも同じことがいえるのである。

いろんな発明

人間は、発明する稀有な動物だ。

当然だが、発明ができるのは、思考力があるからである。
だから、人間は、思考力をもった稀有な動物だ、という方がより上位にある概念だ。
それもこれも、思考力の使い方にあって、発明することができるひとと、発明しないひとの思考力になんらかの差があるからだろう。

これを、さいきんでは、「個人差」といういい方で切り捨てている。

にもかかわらず、「いろんな平等」をいうので、何が何だかわからなくなるが、それもこれも、わざと混乱させて、あたかも「いいひと」ぶることで、特定の社会状況に仕向けたいという意図によっているから、より面倒なのである。

むかしいっていた、「気を確かになさい」というのは、この意味で名言だった。

この「気」というのは、精神のことだ。
そこで、キリッとしたいときに、「気合い」をいれるし、ダランとリラックスしたいときには、「気を抜く」のである。

もちろん、「景気」の「気」も、このことを指して、世の中全体の気分が浮かれていたら景気は高揚するし、沈んでいれば景気は悪化する。

浮かれた気分は、陽気なひとが先導する。
たいがい陽気なひとは、楽天家で、ばあいによっては、「脳天気」でもある。
一方で、陰気なひともいる。

これらは、生まれついてのもので、だいたいが個人差として認識されるものだが、後天的なこともある。

なので、「世の中はうつろいゆくもの」と認識されて、それが、「時代」を形成するのである。
しかし、ひとが時代を認識するのは、後世になって振り返ったときがほとんどで、リアルに時代認識ができるひとは、また、思考方法がややことなるのである。

むかしは、「激動の昭和」と、戦前から戦争をはさんで戦後の平和をいっていた。

けれども、いろいろなうつろい(個人の細かな振動)が、なにかのきっかけで共鳴をはじめると、想像もできない大波が生まれて、社会の全員がこれに飲み込まれる。

それでできたのを、「社会常識」とか、「社会通念」とかというのである。

そうした状態が、エネルギー準位が低くて安定するために、社会常識からはずれると、まさに「外れ値」のあつかいを社会から受けて、いわゆる、「除け者」にされる。

ところが、社会常識やらも、うつろいゆくひとびとの上に乗っかっているだけの、浮き草なので、だんだんと変化を遂げるものだ。
すると、気がついたら、外れ値だったひとが、突如、時代の寵児に躍り出ることもあれば、その逆もまた真なりなのである。

野蛮なヨーロッパで、「革命(REVOLUTION:大変革)」が何度もあるのは、「振れ」が大きいからである。

150年が経過して、ようやくわが国でも、「明治維新」の立ち位置が見直されようとしている。

それで、見直したくない立場の「保守」勢力は、見直しを試みる勢力を、「歴史修正主義」といって攻撃している。

そもそも「修正主義」とは、マルクス教徒たちの内ゲバになった、「正統マルクス派」対、「修正派」のことで、たとえばドイツのベルンシュタインが「修正主義者」として、正統派から糾弾されて、スピンアウトして今日に至っている。

だから、「修正主義」という用語を用いるのは、そっち方面の自己紹介をしているという意味も含まれているものだ。

つまり、明治維新を保守したいひとたちのなかに、正統マルクス派が存在する。
これに、国粋主義的ないわゆる、「右派」という意味の「保守派」が混じっているのである。

けれども、明治維新の意味の修正をもとめるひとたちも、「国粋主義的」ないわゆる、「右派」だから、目立つのは、「右派の内紛」という構造になっていて、これをまた、正統マルクス派が分断を煽っている。

そんなわけで、150年間、強固なはずの「明治維新」が、いま、意外な崩れ方をしようとしているのである。

ずいぶん前に紹介した、山本七平の傑作、『現人神の創作者たち』(文藝春秋、1983年)がある。
小室直樹との「対談もの」の最高傑作で一度絶版して復刻された、『日本教の社会学』をあわせて読むと、その深さをしることができる。

  

要は、「現人神」を発明したのには、意味があるということだ。

そんな明治という、中央集権体制の構築を最優先にしていた時代の、国家統一事業は、「万葉集」すら、発明の対象とした。

われわれは、発明といえば機械文明のことだと勘違いして、「特許制度」を当然としているけれど、特許制度が文明力を衰退させると批判したのは、ハイエク『致命的な思い上がり』(1989年)だった。

こうして、「発明」を、文学にまで広げるのは、じつは人間の精神(気)を支配するのが、文学(哲学)だからである。

受験制度のなかにずっぽり漬かっていて、「実学」ばかりに気を向けさせて優先させるのは、「文学(哲学)は役に立たない」という思い込みをさせる、おそるべき仕掛けなのである。

これを正面から突いたのが、全国3年連続金賞の快挙を果たした、京都橘高校吹奏楽部を育て上げた、田中宏幸元顧問の、哲学の発明であった。

短期債務1500兆円の償還

会計周りの用語で、「短期」とは、1年以内、という意味である。

貸借対照表(バランスシート)に、「現金・預金」が、短期資産に計上されるのは、現金は当然として、いつでも現金に引き出し可能な預金も、現金扱いにするからだ。

逆に、右側の債務に、「短期債務」とあるのは、1年以内に返済しないといけない借金を意味する。
なので、短期債務 ÷ 短期資産を計算すれば、その企業が倒産しない「安全性」がわかるのである。

「長期」とは、1年を超える期間のことなので、長い目でみた場合の企業の安全性は、「固定長期適合率」として、固定資産 ÷ (自己資本+固定負債) × 100 でえられる数字が100を下回ほど安全という意味となる。

ブルームバーグが8日に伝えたのは、アメリカ国債の利払いが、1兆ドルを超えた、というニュースだった。

バイデン政権がたった2年で大盤振る舞いしたら、アメリカ国債残高が爆増して、いま33兆ドルになっている。
円に換算すれば、×150円=4950兆円だ。

このうちの10兆ドル(1500兆円)が、なんと、「短期債務」なのである。
つまり、アメリカ政府は、この10兆ドルをなんであれいったん償還(返済)しないといけない。

来年の世界経済最大のリスクが、この償還がスムーズにいくか?いかないか?にかかっている。
もちろん、ここでいう「スムーズ」とは、従来の保有者が借り換えに応じてくれるか?という意味である。

要は、これまでの国債を償還した形であっても、「そのまま」あたらしい国債を購入してくれる、ということである。

もしも、あたらしく買ってくれないとなったら、アメリカ政府は通常の方法で資金繰りができなくなる。
外国が買ってくれないなら、国内で消化(売る)するしかないということになる。

なんだか、ディジャブなのは、ギリシャの破綻を思い出させるからである。

破綻した企業の「再生事業」をやってきたわたしからすると、「破綻」は悪いことばかりではない。
もちろん、破綻しないに越したことはない、ということでもなくて、ちゃんと経営していれば、ふつうは破綻なんかしない。

ちゃんと経営できないから経営破綻するのだ。

なので、「悪いことばかりではない」という意味は、そうした悲惨に企業を追い込んだ、経営者たちに経営の場から退場してもらえることに尽きる。

もちろん、そんな企業なら従業員にも痛みを伴うけれど、これは経営者に意見やら楯突くことができなかった、あるいはしなかったことの報いともいえる。

まぁその前に、破綻させるような経営者は、事ここに至っても従業員に情報提供しないのが特徴だ。

破綻後の事業継承にあたっての従業員説明会の場(いわば「この期に及んでも」)でも、会社がいまどうなっているのかについてまったく無知なひとがいるのは、何もかんがえないで機械のように働いて、給料さえ得ればいいとやってきたのがよくわかることだ。

しかしながら、人間をそこまで無関心にさせるのも、経営者の悪しき手腕だったといえるから、心から気の毒におもえるのである。

とはいえ、自身の身分確保(雇用の継続)と、退職金の一時払いでリセットし、新会社での退職金計算が新規雇用として開始される程度の痛みだ。
経営破綻したのに、退職金をいったん支払うまで資金を用意するのは、その後の再生事業に従業員たちの「心の入れ替え」が不可欠だからである。

動画で観るいまのアテネの様子は、なかなかの荒み具合ではあるけれど、数字上でギリシャ経済はずいぶんと立ち直っているようにみえる。

わたしがエジプトに住んでいた80年代の前半から、帰国してちょうど10年後に再度訪ねたときの変化は、戸惑いこそ感じたほどで、あのエジプト人たちが、時間を守っていたのが信じられないことだったのだ。

経済成長の度合いは、カイロの街中に高層ビル群ができたことでもわかったが、ずっと南の郊外に住んでいたわたしの家だった場所に、とうとうたどり着くことができなかった。
街のランドマークさえ変わってしまったからだった。

こうしたことは、あたかも途上国だから、という常識があるが、先進国にはあり得ない、というのもまちがっている。
あたらしいタイプの大統領が誕生した、アルゼンチンは、『エビータ』(1996年)でわかるように、むかしは南米1位(世界5位だったこともある)の経済大国だったのである。

まさに、平家物語のいう真理、「驕れる者も久しからず」、「盛者必衰の理をあらわす」なのだ。

そんなわけで、アメリカ人は、10兆ドルの返済をどこまで意識しているのだろうか?とおもうと、あんがいと破綻した企業の無知なひとと重なるのである。

もちろん、わが国の状況も似たようなものだが、気になるのは、先の米中首脳会談だった。

15日、APEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議に合わせ、アメリカのサンフランシスコで行われ、マスコミは「中身がない」とか「落とし所がない」とか、あるいは、バイデン氏の「独裁者発言」だけが目立っていた。

こうした、おとぼけ記事を疑うのである。

アメリカ国債の保有残高をずっと減らし続けているけど、日本に次ぐ巨額保有者である相手に、「短期債務」の償還義務がある立場にしては、まったく辻褄があわないからだ。

「買い換え」を懇願したのではないのか?

これがうまくいかなくて、腹いせの一言であったのだろう。
相手がこの失敬に動じなかったのは、ひざまずいたのが誰だったかを示すものだ。

しかし、その提示した条件に、まさか、日本を売り渡す(台湾は当然)、こともあったなら、岸田氏が慌てて急遽、年明けに米国訪問する意味もわかるのである。
いかにぼんくらな外務省でも、これぐらいはやっておかないとアリバイがなくなる。
カネがない財務省と、財源をつめるのに時間を見計らったにちがいない。

「ぼくを売らないで、もっと買い増しするから」といって、立場を確認しに行くのだろうけど、相手は日本を征服した、民主党なのだ。

そのために増税するのは、もはや日本人が日本人でいられるのをカネで買うしかなくなった、ということなのだから、せめて岸田氏は正直に国民に情報提供するとよい。

歴史に汚点が永久に刻まれないように。
これが、与党「歴代」の結果なのであるから。

阿呆・バカ・間抜けの日本政府

14日付、ワシントンポスト紙が伝えた衝撃の記事。

「禁じられたロシアの石油、ペンタゴンに流れ込む 所有権が何度も変更されて、ギリシャの製油所に送られ、米軍に供給されていた」

一方、わが国の経産省は、今年の2月5日以降、事実上の禁輸措置をして、中東依存を石油ショック時よりも高めるようにしていた。
もちろん、その名分は、「国際平和のため」ということになっているけど、「国家安全保障」は二の次なのである。

経済安全保障担当大臣の存在意義がかすむけど、党内人事のなれの果てポストだということがバレている。
なのに、この無能大臣が次期総理候補筆頭だと「(ビジネス)保守」がいうのは、論理破綻している。

ギリシャ沖で瀬取りをしている「うわさ」(日経報道)について、前に書いたが、これは間違っていた。
瀬取りではなかった、という意味だけだけど。

さらに、今回の記事では、ヨーロッパ(EUあるいはNATO)の国でも似たような「抜けがけ」をしているとすっぱ抜いた。

すると、わが国の生真面目さはなんなのか?
これを、「奴隷根性」というのである。

2021年(令和3年)10月4日に発足したのが、岸田政権であるから、このアメリカに無条件に追随している政権としての責任追及が国会で行われるのかどうか注目される。

しかし、宮澤喜一内閣以来の「宏池会」政権であるので、アメリカ追随は派閥の存在理由としてある。
すると、元まで遡れば、吉田茂の系統ということになるのである。

これを、むかしの政治評論家、戸川猪佐武が、『小説 吉田学校』(1971年〜80年)として持ち上げたのであった。
ここででてきたおかしな定義が、「保守本流」であった。

外川は、「保守」をどのように位置付けたのか?わたしにはずっと違和感があったけど、さいきんになって「そうだったのか!」とおもうのは、アメリカ民主党がつくった日本征服状態を保守するひとたちの「本流」だという意味なのである。

つまりは、「奴隷の幸福追及一派」ということである。

もちろん、奴隷として辛酸を舐めるのは国民多数のことだが、それを仕切るエリートたちは、牢獄で看取の補佐をする裏切り囚人として人生を謳歌できるということだ。
他の囚人からどんなに蔑まされても気にしない精神状態にかならずなるのも、特徴のゲスだ。

おそらく、アリストテレスの『奴隷論』をしっているひとたちの企みにちがいない。

わが国の不幸は、こんな売国吉田の系統に対抗するのが、CIAと手を組んだ岸信介の系統(清和会)だけだったことにある。
吉田の売国的安保条約の改訂を試みた岸の想いは、「国士」のそれでだけであったのか?といえば、「冷戦勃発」とその対策において、アメリカの都合が反映されていたことは間違いない。

分断をもって統治するのは、英国がインド支配で大成功して以来、腹黒い白人がやる常套手段なのである。
ために、吉田と岸は、この分断の親方に据えられて、アメリカ民主党がこれらをコントロールしたのであった。

「60年安保」の複雑は、戦前の岸(近衛内閣の商工大臣、その前は満州国次官)をしる当時のおとなたち(戦災の生き残り)と、改訂安保が目障りなソ連の意向を汲んだひとたちによって巻き起こった、混沌のムーヴメントであった。

この点で、「70年安保」における、「反米」と「親ソ」の混沌は、戦災の生き残りが次世代の若者に「反米」で乗り移った姿でもあった。

60年安保の騒乱を受けて、アメリカ民主党は、日本の高度経済成長を容認したのである。
つまり、食えない貧困が革命を産むリスク回避なのであるが、冷戦がまた日本を必要としたラッキーでもあったのである。

ただし、アメリカ民主党(=GHQ)の占領政策は、えらく「赤」かったので、素直に赤く染まった日本人が騒乱を起こしたのを、こんどはソ連が利用する構図になっていたことには注意がいる。

要は、米ソ冷戦もしかりだが、なぜにソ連が連合国なのか?が欠落している。
じつは、「グルだった」のではないのか?

高度成長をあたかも、日本人の自助努力だけで成し遂げたというのは、お目でたすぎるし、明治維新だって、ほんとうは英国と結託した薩長が奴隷のなかの裏切り奴隷で、しっかり英国に好きなようにされたのに、アジアで唯一とか、有色人種で唯一植民地にならなかったとかと、ありもしない幻想にいまだに自己満足しているのである。

なので日英同盟の意味を、理解できないでいる。
これを大陸人たちは、「日本人は何度もおなじように騙せる」と、公言してなお、ほくそ笑んでいるのだ。

どうして、こんな惨めなのか?

「歴史を忘れた民族」だからだ。
それがとうとう、受験エリートの脳を冒して、「官民あげて」阿呆・バカ・間抜けになったのである。

そんななか、19日、地球の反対側にある、アルゼンチンで、「極右」のハビエル・ミレイ下院議員が、大統領選決戦を制した。

逆神のマスコミは、フランスのマリーヌ・ルペンとおなじパターンで、その「ヤバさ」を煽って、いつものように日本人読者を惑わすのである。
それでもって、いつものように日本人読者は惑わされることになっている。

まったく、懲りないのは、一般人も文科省が独占している学校教育で、阿呆・バカ・間抜けになったからである。

公正取引委員会は、文科省にせめてもの独禁法違反の「警告」ぐらいだしてほしい。

ハビエル・ミレイ氏(じつは自由主義経済学者)は、確かに「熱い」言動をするひとだが、阿呆・バカ・間抜けかどうかはまだよくわからない。

とにかく、「自由主義者」であることが、社会主義・グローバル全体主義の目線からしたら、「敵」なのである。
それゆえに、ミレイ氏は、先手を打って、これらに宣戦布告したら、大統領に当選したのだ。

さしもの日本人一般も、岸田政権だけでなく自民党支持も5人にひとりを割ってきたけど、アルゼンチン国民の阿呆・バカ・間抜け度はいかほどなのか?

よーく観察しないといけない。

梅干しと醤油の買い物ツアー

こないだ3㎏予約した「完全潰れ梅干し」が、用意できたとの連絡があったので、大風の中かみさんとお買い物半日ツアーに出かけてきた。

せっかく小田原まで出かけるのなら、すこし足を伸ばして、御殿場の醤油を追加購入しようとなったのである。

このお醤油屋さんは、日曜が休みだし、土曜も休むかもしれないので、念のため電話して営業中か確認した。
さいきん、目指した先が定休日だったり不定休の休みに当たったりと、店先で呆然とすることがあるのだ。

言っちゃ悪いが、ちゃんとした老舗ほどHPの情報が更新されていなくて、信用できないのである。

もちろん、老舗でもデジタル対応がしっかりしていることもふつうにあるが、あんがいと「ここ一番」の店が、ダメなことがあってそれが印象に残るのである。

逆に、老舗の立場からいえば、べつにHPなんてどうでもよくて、なんかしらないが商工会とかとの付き合いでHPを製作すれば、地元行政から補助金が出て安く作れるとそそのかされたパターンが多いのだ。

どんなに行政が鬼の形相で地団駄踏んでも、商店街振興がムダな努力となるのとおなじなのである。

そもそも、その店に魅力がないか、魅力の表現すらできないならば、なにをやってもうまくいかないし、ましてや商売をしらない行政マンがどんなにえらそうに口をだしても、ほとんどが無意味なのである。

明治の初めの、「武士の商法」よりひどいのが、行政における「地元経済対策」の失敗の本質である。

これを、国家も「経済産業省」なる武士の商法しかしらないものに、多額の予算を与えるので、もっと始末が悪いことになっている。

そんなわけで、知らないひとには知らないままに、わが家ではちゃんとした醤油をつかって、自己満足に浸っていればそれだけでいいのである。

在庫の醤油が一升を切ったから足を伸ばした買い物動機であるが、この造り醤油屋の醤油を一升瓶で販売している小売店を他に知らないからでもある。
沼津のスーパーには、小瓶しか取り扱いがなかったのだ。

しかし、どういうわけかビンからペットボトルへの容器変更を行っている最中で、ビンで二升買えたのは、直接行ってみた甲斐があったというものだ。
これからは、ここの醤油瓶は保存して、ペットボトルだけの販売になったら、自分で容器を入れ替えて保存することになるだろう。

そのための、漏斗もどこかで買っておかねばならない。

せっかくのちゃんとした醤油が、なぜにペットボトルになるのか?
いまどきだからこそ、世にも不思議なことではある。

ゴミになった最終物の再利用という発明品だった、「レジ袋」を法ではなくて、省令という国会を通さないやり方で国民に有料扱いを強制させた、横須賀の小泉議員の天才は横にしても、レジ袋同様に高分子体の「PET(POLY ETHYLENE TEREPHTHALATE)ボトル」は、再利用が困難な物質だ。

それを、「リサイクル」と言いだして、爆発的に利用が増えたのは、プロパガンダによって国民の道徳のタガをはずしたからである。
それでもって、悪辣な組織と化した横浜市は、回収したペットボルは再利用業者に引き渡すだけで、「再利用している(はずだ)」と強弁して、その先の出来事に頬被りしてはばからない。

醤油などは、化学反応を起こさない、ガラス瓶での保存がもっとも安全で合理的なのだ。
PETボトルでの長期放置は、石油由来成分がしみだしてくるおそれがあるからである。

けれども、ガラス瓶の扱いは重いとか、ペットボルに比べたら費用がかかるとか、あれこれといろんな悪魔の誘惑があるので、とうとう社長の決断に至ったのだろうとおもうと、残念でならない。

そんなわけで、ラベル付き一升瓶が貴重になったのである。

一方、小田原は曽我の梅林では、用意してあった梅干しは、「完全潰れ梅」のはずが、なんだか粒ぞろいなのである。
店主の気配りが、なんだかうれしい。

けれども、厚手のビニール袋に入っているから、これもどうやって容器に詰め替えるか?が問題になった。
むかしなら、樽にそのまま漬けたのだろうが、いまではプラスチック製の樽になっている。

卓上には、陶器の梅干し壺を常備しているけれど、保存用のものはない。
耐熱ガラスの鍋があったが、ずいぶん前に棄ててしまった。
蓋付きのあれが、梅干し保存に最適だったかもしれないと悔やむが、後の祭りだ。

やっぱり、陶器かガラス製の容器がいい。

それならば、と、リサイクル・ショップで探してみよう、ということになった。

曽我のこのあたりは、「農村」なので、その他の野菜やいまなら柿とみかんの直売所が並んでいる場所もある。

ぜんぶが小田原産だ。

せっかくなので覗いてみたら、大量のみかんがあった。
早生なので、小粒な品種はもう終わりだという。
味見をしたら、好みの酸味がある。

「小田原のみかんは酸っぱい」といわれてきたが、さいきんではずいぶんと甘くなったそうだ。

「甘いは、うまい」というトレンドがすっかり果物に張り付いて、逆に、「やみくもに甘い」ばかりとなった。

それが典型は、山梨の、「シャインマスカット」だろう。
ただ甘いだけの葡萄が、もっとも高単価商品になっているのは、ちょっと笑える。

それでも、ひと手間加えると劇的に変化するものだ。
旬の柿は、ヘタを取って焼くと断然甘くなることを覚えたし、シナモンとの相性もバッチリだ。
サツマイモは、70度の時間帯をおおくつくる加熱法(弱火で蒸す)で、酵素が作用して抜群に甘くなる。

なんだかいろいろ買い込んだけど、スーパーにないものばかりで、まずは満足なのである。

幼稚化するエリートたち

むかしの子供にはあからさまな生意気があって、「子供のけんかに親が出る~」といって、親(おとな)が子供の世界に介入することを嫌う常識があった。

親世代もそうだったから、よほどの怪我をするとかしないと、親が子供のけんかに口出しすることはなく、むしろ一方的にやられるばかりだったら、どうしてやり返さなかったのか?と家庭内でも叱られたものだった。

学校が直接のけんかの舞台でなくとも担任の先生なら、いち早く察知して、状況を周辺の子供から聴き出して、それなりに正確なジャッジをしていた。
このジャッジの中にも、「放置」という選択肢があったし、ばあいによっては当事者の子供のしらないところで、双方の親にも情報提供していたのだった。

だから、帰宅して妙に親が落ち着いていたのが不思議だった。
緊急連絡網と各家に電話があった時代のはなしである。

日本文化の異次元性を指摘した、江戸末期から明治初期に来日した外国人は多数いたが、その嚆矢はやはり、信長・秀吉時代の、伴天連たちが観察した日本人の姿だろう。

残念ながら、その数百年前、あおによし奈良の都で万人単位で採用されていた、ペルシャ人官吏たちからの日本人への観察記録をみたことがない。

身分制を推奨するものではないけれど、身分制のなかに潜む、「責任を果たす義務」というものが、その身分を持つ者たちの矜持となったのは、そうでもしないと身分制が維持できないことをしっていたにちがいないからである。

これを、日本では、「武士道」といったし、ヨーロッパでは「騎士道」とも、「ノブレス・オブリージュ」ともいっていた。

ヨーロッパでは、「産業革命」によって、貴族による支配が揺らぎ、新興勢力のジェントルマンたちを貴族社会に取り込むことでなんとか維持してきたが、産業革命は人々を平準化させるという力学が作用して、圧倒的多数の「大衆」が誕生した。

産業革命以前には、「庶民」はいたが、ほとんどのひとたちが農業従事者だったから、土地に張り付いてオーナー地主たる貴族の配下にあったのである。

日本では、この構造をヨーロッパを基準にして考察するという流行があった。

しかしながら、日本の農民事情はヨーロッパとはぜんぜんちがうので、明治維新の説明がおぼつかないことになっていたのである。

なぜなら、日本の貴族(公家だけでなく大名も含む)は、えらく貧乏だったのに、ヨーロッパ貴族が絢爛豪華な生活をしたのは、アフリカやアジアからの富の収奪に起因した。
つまりは、集団的強盗を正当化することで成り立っていたのがヨーロッパ貴族で、日本の貴族は、道徳的にならざるをえなかったともいえる。

もちろん、そんな収奪による絢爛豪華な生活ができたのは、武力のおかげであった。

だから、ヨーロッパ貴族の道義(倫理)とは、ヨーロッパ貴族の間でしか通用しない。
いま、イスラエルとハマスの双方が、「人間の格好をした動物だ」と互いに認定する発想の根拠が、この仲間内だけの価値観の対立に落ち込んでいるからである。

ここに、「多様性」とか、「ダイバーシティ」とかが微塵もないのを、またこれを推進しているひとたちがなにも言わないでいるのは、不道徳ではないのか?

対して、日本の武士道は、社会全体を網羅したから、はなしがぜんぜんちがうのである。
そこに、「公(おおやけ)」という概念が先にあって、「私(わたくし)」を抑える常識が、庶民にも普及していたのである。

これは、決定的なちがいであって、まったくもって、「レベル(次元)」がことなる。

わたしは、「産業革命」はあったけど、「資本主義が誕生した」とはかんがえていない。
人間の生活を一変させたのは、産業革命「だけ」であったとかんがえている。

そんなわけで、当時の経済学の巨匠的な存在だった、ゾンバルトは、『恋愛と贅沢と資本主義』なる屁理屈をもって、資本主義発生の根拠とせざるを得なかったのである。
ようは、ありもしないものを、マルクスが「資本主義」と言ったことだけを根拠して、別角度から解説しようとしたら、こうなった、というわけだ。

そんなわけで、明治期に「産業革命」だけが輸入されのは当然で、そこに、資本主義があるはずだと信じるしかない、あたらしい宗教がひつようになった。
これを、山本七平の傑作、『現人神の創作者たち』(1983年)が解説している。

 

しかるに、わが国では、国民全員が産業革命に染まることになって、資本主義ならぬ「儲け主義」が蔓延し、それが最初のピークが、第一次大戦でヨーロッパが自滅した、大正時代の一大産業バブル、「大戦景気」であった。

銀座に颯爽とあらわれた、その後の、「モボ(モダンボーイ)」、「モガ(モダンガール)」とは、この儲け主義のあだ花だったのである。

さて、そんな儲け主義の権化が、アメリカ民主党だ。

バイデン一家の汚職が、とうとう暴かれて裁判にもなってきたら、なんと「悪いのはぜんぶトランプのせいだ」という、ありえない言いがかりが、「堂々と公判で」主張されている。

息子ハンターとその兄の未亡人がおつき合いして、互いにコカイン中毒だったのも、トランプ氏のせいだという。

ヒラリー・クリントン(もちろん夫も)からオバマについで、バイデンも、おどろくほどに幼稚なのである。

それで、こんな連中の属国に堕ちた日本人も幼稚化している。

トランプ政権の大黒柱だった、ポンペオ氏も、じつはDS側だったとカミングアウトして、どういうわけか先日、ウクライナ・テレコムの取締役に就任したと発表され、臆面もないのだ。

あえてひいき目でいえば、欧米資本は、いよいよウクライナの富の「刈り取り」モードに入ったということを、身を以て示してくれた、ともいえる。

幼稚な社会におとなが棲む苦しさよ。

国会図書館での唖然

英語の方がわかりやすいというものに、「National Library」 がある。

失われた古代図書館で有名なのは、エジプト・アレキサンドリアにあった、いわゆる、プトレマイオス朝時代からローマ帝国時代にかけて実存した、「アレキサンドリア図書館」である。
当時の世界最大かつ最重要な知的文化施設であった。

しかし、ローマのカエサル(シーザー)が自船に火を放ったことが原因で、この図書館も焼失したという話が残っている。
実際は、たしかに被害はあったものの、館としては継続していたが、紀元3世紀にやはり戦乱によって破壊され廃墟と化してしまったのだった。

わたしは40年弱のむかし、この図書館の「遺跡」を見学したことがあるが、それが「図書館である」としらなければ、よくわからない遺構にしかみえなかった。
残っているのは、増設された「別館」とのことなので、はたして本館をあわせると、どれほどの巨大さだったか?想像もつかない。

紙がまだ世の中に存在しなかった時代の図書館は、羊皮紙の「巻物」であった。

ずっと時代は新しくなるが、図書館を舞台にした物語で、迫力があったのは、イタリア・ボローニャ大学の記号学の権威、ウンベルト・エーコが書いた『薔薇の名前』(1980年)であろう。

  

日本では、鎌倉中期にできた、「金沢文庫」(横浜市金沢区)が、武家文庫の最古とされている。

なお、横浜市にあって、かつて「藩」であったのは、ここ武蔵金沢藩だけであるから、広いが歴史がない横浜でも、金沢区には独特の雰囲気があると個人的におもっている。

「国際機関」といえば、水戸黄門の印籠のような権威を感じるのが戦後日本人だ。

しかし、戦前、良くも悪くも「国際連盟」を脱退したのは、独立国家が優先する常識があったからでもある。

安政の大獄で、わずか25才で処刑された橋本左内が、「この先50年もしたら腹黒い白人たちがあたかも美辞麗句のもとに国家組合をつくって、世界支配を試みるであろう」と予言したのは、驚愕の事実なのである。

ここにも、国家が先で国際機関はその下にあると、常識的に位置付けられている。

それが証拠に、たとえば、国連本部があるニューヨークや、ヨーロッパ本部があるスイス・ジュネーブに駐箚(ちゅうさつ)する、「国連大使」(ジュネーブなら、「国連軍縮大使」)の序列は、ワシントン駐箚大使やスイス大使よりも格下になるのである。

それでもって、国際機関で最初の「お困り」で有名になったのが、「UNESCO(ユネスコ)」であった。

アフリカ出身の、当時のムボウ事務局長が、私物化した。
まったくもって、「無謀」な組織なので、余計なことばかりをやっていたのである。
その流れに、いまも、「世界遺産」なる無謀をやっている。

しかしながら、たまには仕事をしていて、「National Library」の定義づけをしているのである。

それが、1970年の「図書館統計の国際的な標準化に関する勧告」で、法律によって「納本」をさせる図書館で、「書誌(全国出版目録)」をつくる業務があること、になっている。

すると、わが国では、「国会法」に定める、「国立国会図書館」がこれにあたる、唯一の図書館となるのである。

わが国は一応のところ三権分立が建前にあるので、地元の行政がやっている「図書館」とはちがって、国会図書館は文字どおり、行政が関与しない、国会が運営しているので、職員もみな、国会職員としてふつうにいう公務員試験とは別の採用システムをパスしたひとたちということになる。

横浜市にいるメリットは、日本最大規模の行政図書館があることで、いまの蔵書は150万冊という触れこみになっている。
いざとなれば、近くの神奈川県立図書館もチェックすると、たいていの本が閲覧できるのである。

しかし、どう検索してもない本があって、国会図書館でしかヒットしない。
それで、学生時代以来40年ぶりとなる、直接、国会図書館を訪問した。

当時とシステムが更新されているから、新規利用者登録をしないと入館できない。
そうやって入館したら、検索用のPC端末がズラリと並んでいるのは、壮観であった。

しかるに、お目当ての本を検索しヒットさせるまではよかったが、「デジタル化作業中」と注にでてきた。
ここから先の、閲覧申込みもなにもできないのである。

窓口で確認すると、閲覧不可状態とのこと。
いつまでか?と質問したら、来年の4月だという。

当該図書の総ページ数は22ページの小冊子なのである。

もちろん、個別でみればたかが22ページのデジタル化で、なぜにそんなに時間がかかるのか?ということになるが、外部からは想像もできない数量のロットの中に入り込んでしまったのだろうと推測できる。

なんだか、東京中央郵便局の、世界最速自動仕訳機を思い出した。

トヨタの現場管理者がコンサルに入って、まっ先にスクラップになった逸話がある代物だ。
この機械の仕訳能力がすさまじいスピードなので、稼働させるには何万通ものストックができるまで、動かせない。

すると、手紙が溜まるまで、ずっと放置されるから、局から配送に回るまでの時間ロスが半端ではなかったのだ。
ポストから回収された郵便物を、処理能力は遅いが、ダラダラと動かしてさえいれば、はるかに早く目的地行きの配送トラックに乗せられる。

どうやら、国会職員さんも、この罠にはまったようではあるけれど、皇居を挟んで反対側の中央郵便局でのカイゼンをリサーチできていないのは、とても残念だ。

あるいは、業務委託先の都合にあわせて、まさかの「経費削減」を優先させたのか?
ちんけな発想が、国会をも支配しているかもしれないことに、国家の衰退とアレキサンドリア図書館の遺跡を重ねた。

それにしても、22ページになにが書いてあるのか?が、気になって仕方がないのである。

アートマネジメントが決め手

9月末、名門「宝塚歌劇団」における、団員の死亡について、団は14日、外部弁護士らによる調査報告書を公表した。

この報告書内容に関しては、マスコミ各社が報道しているが、ファンや興味のある方はご自分でも歌劇団HPからダウンロードして熟読すると良いかとおもう。
なお、公表されているのは、「概要版」のみのようで、同ページには、「今後の対応」もダウンロードできるようになっている。

私は個人的に宝塚のファンでもない一般人だ。

なので、歌劇団の公式見解だけをみても、あるいは、マスコミの報道やSNSでの各界著名人が語る個別の批評をみても、なんともいえない。

コンサルとしての本業からすれば、例えば、日大アメフト部の公式試合における故意のタックルからはじまった一連の不祥事で、理事長の退任と、新理事長に有名作家が就任し、それでもまた同部による不祥事が発覚して、そのマネジメントの稚拙さに呆れたばかりであったから、「宝塚よお前もか」と嘆きたくなる。

ところがどうやら、エンタメの分野での連想で、「J事務所創業故人がやった不祥事」との関連の方が一般的には強いらしい。

もちろん、この芸能事務所の経営管理についてのお粗末も、それだけで不祥事といえるレベルであるが、終戦直後からのGHQと創業者との関係もあって、一概にマネジメントの問題とだけでは片付かない複雑な特殊性もある。

これがまた、いまの与党政治家が、アンタッチャブルにしている原因ではないかとうたがうのである。

だから、組織マネジメントとして捉えた場合に、私には日大と宝塚歌劇団が結びつくのである。
ただし、宝塚の場合は、理事長の辞任決断が早かった、という特別がある。

この点は、阪急グループという大きな企業組織枠で考慮すべきだという報道も散見する。

関東の田舎者である私は、阪急グループの巨大さと関西圏における影響力を実感できない恨みがある。
せいぜいが、東京有楽町の阪急デパートぐらいしか接点がないからだ。

とはいえ、来阪の際には、たいがい梅田阪急のデパ地下で、帰りの新幹線でのおつまみを調達することは欠かせないのだが。

さてそれで、今回の「事件」は、現役団員の不審死(自殺とみられる)の原因から発している。

まずはなんであれ、ご本人のご冥福を心より祈念するものである。

ご遺族の見解は、団員間の「いじめ」があったことだ。
団としての調査報告(おなじ事務所の弁護士が5人とその弁護士事務所職員4人の計9名:別にいえばある法律事務所に一任した)では、いじめは「確認できなかった」として、真っ向対立しているのである。

また、外野もかまびすしく、OGのそれぞれが経験談や感情論やらを公開して、雑音化もしているようだ。

本稿では、こうした話は別途お任せするとして、組織マネジメントという観点からの考察を試みる。

上述のように関東の田舎者からしたら、関西圏の文化性(お稽古事への熱心さ)は、やはり関東のそれとはちがう気がするのは、前に書いた、「平安貴族社会における中宮サロン」という伝統があるからではないのか?とおもわれる。
清少納言と紫式部の知的バトルは、二人の中宮(皇后並立)という歴史上の特殊な時代も背景にあった。

後世の我々には、華麗な文藝バトルでの作品群を残してくれたのは、恩恵ばかりだが、当の本人たちには別の感情があったろう。

もちろん、これら二人を頂点とした、文化人たちがそれぞれの中宮のサロンに集まっていたのだから、その層の分厚さと質の高さは、現代の比ではない。
人間は進化しているように見えて、あんがいと退化しているのである。

事業としての「劇場」や「劇団」をかんがえるとき、世界には「アートマネジメント」という分野がある。
これが典型は、「オペラ」なのだ。

なぜなら、労働集約的なオペラこそ、チケット収入だけでは団も劇場も維持できないのが常識だからで、どうやって公演と経営を維持するかが、世界中で課題になっているからである。

中でも、世界最大のオペラといえば、ニューヨークの「メトロポリタン歌劇場(MET)」で異論はなかろう。
しかも、METには公的補助はほとんどなく、マネジメントの工夫をもって維持している実績もまた、世界的だからだ。

それゆえに、アートマネジメントの研究対象として、METが選ばれている。
また、METの方でも、自身で制作・世界同時配給している、『METライブビューイング』では、幕間に歌手へのインタビューをしたり、舞台の裏側を案内して、観客に映画館にきて観るかいがあったようにしている。

そこにも、「アートマネジメント」のかんがえ方を散りばめていて、ふだんマネジメント職にある中心的な観客層の知的好奇心を満たす努力もしているのである。

じつは、METは、かなり工業的な合理性での進捗管理を「オペラ作り」に導入しているから、いま目の前で上演されている公演は、新品の自動車のように作られたものなのである。
しかも、「芸術作品」として。

すると、わが国を代表する「宝塚歌劇団」のアートマネジメントは、どうなっているのか?

雑音の中にある、「OGの真実の声」を探り出して聞こえてくるのは、残念な事情ばかりだし、『報告書』にも、残業時間やらの管理体系が壊れていることを示唆してしる。

「モノづくりは人づくり」という、わが国工業会の常識がある。

ならば、トヨタ自動車にアートマネジメントを学ぶべきではないのかとひたすらおもうのである。
おそらく、後輩たちにどうやって教えるのか?という喫緊の課題も含めて、「TWI」「MTP」がセットで役に立つにちがいない。

総合芸術も、工業の知見が役に立つものなのである。

[合掌]

またまた「つなぎ予算」になった

昨日指摘した「アメリカ連邦つなぎ予算」の期限17日の直前になった14日、下院で次の「つなぎ予算案」が可決された。

わが国とちがう、大きく2本あって、1本は、軍や農業、運輸関連などが来年1月19日まで、もう一本が、それ以外を対象に2月2日までとなっている。

なお、アメリカの国家予算の会計年度は、10月1日~翌年9月30日までとなっている。

可決にあたっての票は、賛成336、反対95であったけど、気になるのは内訳で、共和党は賛成127、反対95、民主党は賛成209、反対2となって、民主党の賛成多数が共和党の反対を押し切ったから、共和党の議長からしたら身内の同意が得られなかったという皮肉な結果になっている。

大統領の与党たる民主党の議席が、中間選挙で野党共和党に逆転されて、ねじれ状態になっているのが、今回のつなぎ予算案では、少数与党の民主党が主導権を握ったごとくになったのだった。

何度も書くが、アメリカの国家予算編成権は、連邦下院議会にある。

わが国のように、行政府にある財務省ではないし、世界を仕切る最高権力者だといわれている、アメリカ大統領にも、予算編成権はないのだ。

アメリカの大統領は、財務省という事務局をつかって、議会で決まった予算の執行権限しかない。
つまり、「独裁」を排除する仕組みになっている。

わが国の場合は、明治からこの方ずっと、財務省(大蔵省)が予算編成権をもっていて、国会の承認(ろくに議論なんかしない)を経れば、財務省が執行権限ももっているし、国税庁を外局にして、徴税権ももっているから、「独裁」ができるのである。

この体制は、伊藤博文(長州閥)がつくりあげた鉄板で、「民主主義」をいうGHQもなぜか変更させなかったのは、占領後のわが国支配(征服の永久継続)に都合がいいからである。

それで話をアメリカに戻すと、連邦下院議長が、議会に予算案を提出するのである。

ために、議長職には議会事務局(議会事務局内に「予算局」がある)を差配する権限もあるので、わが国のお飾り的な衆議院議長とは、その権力の重大さも天と地ほどにことなる。

もちろん、議会警察(日本では「衛視」)も、下院議長の配下にあるので、あの「1月6日事件」について、当時のペロシ議長が仕組んだ偽旗作戦の「うわさ」が絶えないのである。

これに関しては、事件後、ペロシ議長から責任を追及され(濡れ衣を着させられ)て解任された、元議会警察署長が、下院議会で宣誓証言もして、だんだんと「うわさ」ではなくなってきた。

さて今回の予算可決について、さっそくNewsweekが特約している、アメリカ在住の、冷泉彰彦(本名:前田彰彦)氏が記事を寄稿している。

Newsweek誌も、典型的なグローバル全体主義側のプロパガンダ機関なので、「読解力」を要する。

もちろん、これと特約している冷泉氏も、メフィストフェレスに魂を売ったファウスト博士の立場にあるとかんがえていい。
なお、「冷泉」を名乗るが、あの和歌の名門「冷泉家」とは関係のない、ペンネームである。

それでもって、こうした記事の「読み方」は、事実だけをくみ取って、解説部分は切り捨てる、ということをしないといけない。

すると、重大なポイントは、ウクライナとイスラエルへの軍事支援は含まず、ということに尽きるのである。

現議長も与していたという、共和党の「強硬派(トランプ派)」が反対したのは、歳出カットは実施せず、という点である。
これには、「オバマ・ケア」からの流れをくむ、福祉予算もある。

個人の独立独歩を重視する共和党保守派(強硬派:トランプ派)は、個人の独立独歩を破壊する、手厚い福祉政策(=社会主義・グローバル全体主義)を否定するからだ。

もちろん、グローバル全体主義の推進を旨とするNewsweek誌は、手厚い福祉をドンドン推進させて、国民を安楽な奴隷に仕立てる意図をもっている。

なので、さいきんでは、「日本人をみよ」といって、個人の独立独歩を重視する保守的なアメリカ人は、奴隷化した日本人をおぞましい例として観察しているのである。

つまり、このつなぎ予算は、戦争の元になるカネづる(financial backer)を断ち切ったので、ゼレンスキー政権を見放した決定的な意味と、アメリカを社会主義化・グローバル全体主義化しようとする意図とのふたつが混在するものとなっている。

史上初めて下院議長を解任された、マッカーシー議員に対する同僚の共和党強硬派(トランプ派)による解任理由は、歳出カットを実施しないで、民主党と妥協し、なお、戦争屋の大統領がいう、ウクライナ支援も通そうとしたことだった。

だから、共和党トランプ派が、新議長解任をしないで、ただ反対したのは、決戦が来年の2月2日までに延長された、と解するべきなのである。

当然ながら、来年は大統領選挙の年で、2月2日とは投票日(11月5日)のほぼ9カ月前となるタイミングだ。

ここで仕掛けてくる、とみるのが、選挙決戦の攻防の山となるにちがいない。