英・米の伝統的政治教育で、「民主主義の学校」と比喩されているのが、地方自治である。
いきなり国家レベルの話で「民主主義を云々」するのではなくて、生活に密着した地元自治体のあり方をかんがえることが、そのまま一般人だからこそ民主主義を学ぶことになるからこの言葉が生まれたのだった。
それゆえに、民主主義を潰したいとかんがえる、「独裁的志向」あるいは、「権威主義的志向」がある政治屋たちが多数ともなれば、たちまち地方自治を住民に無益なものに変容させて、知らんぷりすることが自己保身のために最も効率がいい施策となる。
そうやってわが国の地方自治体(都道府県・市町村)を眺めると、既存政党がよってたかってやってきたのは、この「破壊」の方ばかりだったことがわかるのである。
残念ながらこの場合、自民党だけを悪者にすることはできない。
本来なら、全党の連帯責任を要求したいところだ。
それが証拠に、日本人は、政治についてほとんど学ばないで成人させられる。
義務教育では、中学校の「公民」、高等学校では、「公共」「倫理」「政治・経済」となって、大学受験としては、「公共」と「政治・経済」はセットで扱われているけれど、ほとんどの受験生が選択しないのは、教師も詳しくないからだ、という。
ちなみに、わが国の「高等学校」は、「後期中等教育」という位置付けで、なんだか後期高齢者のようなのである。
しかも、18歳から選挙権を持たせることの無責任を追求するものがいなかった。
全国の地方議会は一院制で、首長たる都道府県知事・市町村長との「二元制」がとられていて、国の「三権分立・議院内閣制」とは別物扱いになっていることも、なんだかわからないようにして成人させるのである。
だから、地方では「国会をまねる」けど、それがどんなにトンチンカンかが誰にもわからない。
その結果、「過去からの慣習」という名目にして、しらないうちに「権威主義に従う」ようになっている。
だから、独裁はムリでも、権威主義にはどこもかしこも汚染されるのである。
わが国の「欧米化」は、GHQが仕組んだ、「日本弱体化計画」の柱をなす、日本民族の価値観の喪失を意図したものではあったけれども、2世代以上の時間が経過して、今度はその「副作用」が出てきた。
それは、まったくの政治分野における「欧米化」なのであって、しっかり合理的に欧米の政治を学んだ人物が首長になりはじめたのである。
もちろん、権威主義という「無思考」あるいは、「思考停止」でやってこれた従来型の戦後日本人(たんなる既得権益)からしたら、理屈で勝てないので、必ず「感情で敵認定」することになるのも、必定の構造なのだ。
そして、このことが、「鋭く対立している」ように見えるのは、言葉の応酬からのことだけど、じつは、ぜんぜん次元のちがう会話になって、噛み合わない、からそう見えるのである。
これは、従来なら、左翼と右翼、ちゃんといえば、社会主義・共産主義者と自由主義者の議論のようで、とくに左巻きは議論をすり替えることが得意だったものが、いまは、こうした右・左の水平方向ではなくて、平面の2次元と立体の3次元ほどの「次元がちがう」議論になっているのが特徴だ。
さてそれで、いまの首相の「お膝元」広島県の安芸高田市長の石丸伸二氏(41歳:無所属)と議会、それに中国新聞の、市長を頂点とした二方面バトルが話題になっている。
このひとは、メガバンクのいわゆるエリート銀行員(アナリストとして初のニューヨーク駐在員)だった。
いろいろ物議を醸している中で、議会議員の定数半減案が否決されたときの、「恥を知れ」発言は、記憶にあたらしい。
また、地元紙たる、「中国新聞」との大バトルは、かつての石原慎太郎都知事とか、橋下徹大阪市長を彷彿とさせて、ネット動画のコメント欄は、市長応援コメントが圧倒的なのである。
だがしかし、この市長の政策やその政治手法は、はたしてほんとうに「妥当」なのだろうか?
まず、就任当初からはじまったのは、議会とのバトルだった。
「居眠り議員」をツイッターで指摘したことで、何十年と眠っていた議会にいきなり冷や水を浴びせたので、驚いた議員達は、あたかも「脅迫めいた発言」をしてしまったのだ。
これ自体は、他愛もないことのようにみえるけど、戦後日本の無責任が染みついたひとたちの「感情問題」になって、夏風邪のごとく、こじれてしまったのである。
それで、全国から公募した「副市長の選定」が、否決されるに至る。
ただし、選定案における副市長候補者の推しが、「国との調整経験」というから、そんなもん、なのではある。
また、市長を支持する派と、そうでない派(会派を結成した)とに分かれたので、市民の意思を確認すべく、議会解散を狙った支持派がだした「不信任決議案」を、多数のそうでない派が否決して、法的拘束力のない「問責決議」を決めたのである。
徹底的に合理主義を貫く市長は、「議会報告」を市の広報紙に載せると決めて、どの議員がどのような行動をしたのかを市民に伝えだしてしまう。
これは、「二元制」へのイライラ感の結果なのだろうし、一人前の行動ができない議会自体の問題だから、賛否両論があるという。
つまり、二元制民主主義が想定していないことが露呈しているのである。
議会をどうするかは、議会が決めないといけない。
その議会で、議員がどんな議論をしているのか?を市民に広報するのも、議会の役目だが、日本の場合面倒なのが、議会事務局が行政府と一体なのだ。
ことを急ぐ前に、議会事務局を市行政から切り離して、議会所属にする改革をやるといったらどうなったものか?
議会職員の採用も、行政の市役所とは別にしないといけない。
それで、新聞社とのバトルは、記者が市長と議会とが従来型の、事前すり合わせ、つまり、「談合」を促した記事についてのやりとりだった。
この件では、議会での議論がすべて、という市長の持論はまっとうだ。
こうしたことも、動画が撮影されて編集なしでそのままアップされることの効果なのである。
中国新聞の苦境は、自業自得だ。
さて、話はアメリカに飛んで、4回も起訴されたトランプ氏だが、検察は法廷の模様をネットで「生中継」すると異例の発表をした。
あたかも被告人席に立つトランプ氏を貶めようという魂胆だろうが、そのまま流されることのリスクをかんがえていないのは、どういうことか?
中国新聞のようなことになるのではないかと、期待が膨らむのである。
議会は?といえば、何度か選挙をしないといけないけれど、民意が強い米英と真逆の歴史だったわが国で、どこまで市民が目覚めるのか?は、当面怪しいだろう。
ただ、この市長が繰り出す実務的な政策は、ニューヨーク駐在時に洗脳されたのか?あんがいとアメリカ民主党的なので、市長が自滅する方が先になるやもしれない。
それとも、なぜか人気の「維新の会」に入って、立場を明らかにするのか?
どちらにせよこの市長は、急進左派だと思われるので、やっぱり「中国新聞」は、身内を叩いてしまった愚が目立つのである。