専業主婦の生産性

新聞記事をどんなに集めて読み込んでも、歴史にならない、といったのは名著『明治大正史 世相編』における「自序」で告白した柳田國男であった。
なお、残念なことに、全6巻から「世相編」以外の他の5巻は、国会図書館で閲覧するしかない。

朝日新聞には、是非復刻してしてもらいたい。

さて朝日新聞の重鎮でもあった柳田が、新聞の限界を語ったのは、新聞が書かない、もっといえばフォローしきれないおおくのことの積み重ねが「歴史になる」からである。

似たようなはなしに、「統計」がある。

データとして集め加工したものが統計量となって世間に発表されるけど、そもそもデータとして扱われないおおくのことは、統計としてわかりようがないからである。

それにまた、統計に見せかけたゴミが大量に生産されていて、その背後に「ごみデータ」の使用が山のようにあるから始末がおえなくなるのである。
統計の基本として、ごみデータからはゴミしかでてこない、がある。

これにくわえて、「因果律」の誤用もあるから、現代人は正しい統計知識を持たないと、すぐさま騙されてしまう危険にあふれている。
「因果応報」の「因果」のことで、原因と結果の短縮語であるけど、結果から単純に原因をいいあてることはできない。

たとえば、有名な誤用として、文科省のポスターにどういうわけかいつまで経っても訂正もなければ詫びもない以下がある。
それは、「成績優秀な子供は朝ごはんを食べている、ということに基づいて、朝ごはんを食べれば成績が良くなる」と明記したものである。

よく読めば、前段の「成績優秀な子供は朝ごはんを食べている」と、後段の「朝ごはんを食べれば成績が良くなる」に、因果関係はぜんぜんないことに気づくだろう。

これが、文科省のお役人様の数学的リテラシーのレベルの低さを表しているのだが、もう笑って済まされるはなしを超えていて、彼らは「朝ごはん」に予算をつけるに至っているのだ。

国家はどこまで個人の生活に介入するのか?をかんがえた場合、共産化が止まらない、といえる。

それで、「専業主婦」という職業には、(経済的)価値創造の尺度が与えられていないので、データの取りようもなから、統計に出てこない。

これをまた、むかしの経済企画庁があった内閣府や、総務省統計局、あるいは経済産業省、最新ではこども家庭庁のお役人様は、データがない、ことからの因果律の誤用をして、「専業主婦の労働には経済価値がない」という暴論を吐いて平然としている。

ならば、「家政婦」さんの価値創造をどう見るのか?と問われると、話題を換えて逃げるが一番となる。
こうして、何もわかっていないことだけが質問者にはわかるのであるが、カマラ・ハリス同様に、問われた本人には自分が理解不能だということも理解できないのである。

もちろん、一口に「専業主婦」といっても、申し訳ないがピンキリの幅があるはずだ。

優秀な専業主婦は、「家事」における専門家としてのあらゆる情報収集と、活用の実践を心がけていて、たとえば「食生活」における、「医食同源」の発想から、家族の栄養だけでなく健康に関しても気を遣っている。

すると、ピンとキリの差は、時間経過とともに、家族の健康が失われ医療費が嵩むようになるのと、その逆のことが起きて、驚くほどの「経済格差」を生む原因となる可能性が高いばかりか、外で働くことでの稼ぎよりも、ずっと大きな価値の差になり得るのだ。

それがわたしがいいたい「家政学」の重要さなのである。

また、自動車ローンの契約でも必須である、「金利計算の知識」は、いま学校の「家庭科」で扱っていると書いた。

上の例でも示した、トンチンカンな文科省は、高校生に必須だといって「金融リテラシー」なる授業をやっているが、なんのことはない、証券会社の営業マン氏が講師になって登壇し、投資商品を紹介をしているにすぎない。

賢い主婦とは、国家管理の栄養士でもなに士でもなく、自分の家族のために的確な情報を受け止めて応用できるひとを指すのだ。

すると、そんな素地をどこで磨くのか?が問題になってくるのは、『産学連携と科学の堕落』にあるように、国家管理の大学(研究予算の配分を国がやる)では役に立たないからである。
つまり、「士業」としての勉強ではない、もっと応用範囲が広大な「主婦」としての基礎から学ぶべき場所が、この世に皆無だということがわかるのである。

「奥」の一切を取り仕切って、この分野では主人さえも口出しできない「奥様」を養成するにはどうしたらいいのか?

「女子教育」の重要性はここにあったはずが、子育ても含めてまったくのお門違いとなったので、家族が衰退し、ひいては国家も衰退がとまらないのである。

これらを政策として、わざと国が推進するのは、家庭=家族の破壊が共産化=全体主義への近道だからである。

そんなわけで、家庭から主婦をなくして、外部社会で働かせるための税制やらを用意して、ダブルインカムでも贅沢な暮らしができないように、夫婦が揃って働かないと生活できない賃金体系をつくったのである。

これに阿呆な経団連を代表する民間経営者たちが、目先の人件費コストのダウンによろこんだら、少ない賃金による消費が減ってあたかもデフレになってしまった。

そこで懲りずに国家依存して、アベノミクスなる社会主義(福祉分配)経済政策を「保守」と呼んで、国民乞食化の長期低迷を固定化したのだった。

すると、日本経済の処方箋はなにか?を問えば、ミーゼス、ハイエク等のオーストリア(ウィーン)学派の主張しか選択肢がないことに気づくのである。

トランプがこれをふたたび実施する。

疲労がポンと取れるヒロポン

こないだの末尾で紹介した、「青空文庫」にある『安吾巷談1 麻薬・自殺・宗教 』についてのはなしの続きだ。

まお、「青空文庫」とは、時間の経過で消滅した著作権のない作品を集めている、無料の電子版文庫のことで、ボランティアが入力から校正、制作にあたっている文化活動のおかげで得られる恩恵をさす。

さて、昭和を代表する「無頼派」作家で有名な坂口安吾の代表作は、『堕落論』であった。

しかし、彼が「無頼派」と呼ばれるのは、ハッキリと忖度も遠慮もなく書いたことで、世相・風俗についても同じだったからだろう。
それでも人間関係が壊れなかったのは、本人の個性も含めていろんな事情があったからだとわかる。
ゆえに著作権が切れた長い時間とともに、「資料性」をましている。

ときに、ふつうの人間は生活上で当たり前のことをわざわざ書き残すことはない。

たとえば、「トイレ」での用足しは、生活上の当然だから、どんなふうにするか?とか、どんな構造の設備をつくるのか?とか、古代遺跡ならまだしも、対象が中途半端なむかしだとよくわからないブラックボックスになるのである。

奈良・平城京のお屋敷跡から大量に出てきたのは、先のとがった竹のヘラだった。

痛くなかったのか?が話題になったもので、洋式になったばかりか「温水洗浄便座」が普及したいまでは、肛門括約筋が弛んでお漏らししてしまう高齢者が大量生産されている「真逆」がある。

本稿のテーマにした、『ヒロポン』は、かつて一般人に広く愛用された「常備薬」ともいえる覚醒剤のことである。
なんだか犯罪臭がするのは、だれでもしっている「覚醒剤取締法」があるからだが、この法律が施行されたのは、まだ占領中の昭和26年(1951年)7月30日のことなのだ。

つまり、敗戦からざっと6年間は、「合法」であった。

疲れが取れるから、重労働の社会人は当然として、勉強に励む学生にも集中力を上げるために常用された。
あたかも、いまでいう「健康ドリンク」のようなものだった。

むかしのCMで、「一本いっとく?」とか、「ファイト!一発!」というキャッチフレーズは、意味深なのである。

けれども、これが習慣化すれば、中毒となってえらいめにあう。
そのために、使用回数とか使用量がふえての悪循環となり、とうとう精神病院での入院生活がやってくる。

むかしの映画やドラマに、精神病院を舞台とした作品がおおかったのは、それだけ一般人に身近だったからか?

くわえて安吾は「睡眠薬の常用」についても書いている。

なんのために睡眠薬をつかうのか?
眠るためではなく、少量の酒で酔うためであった。
なにしろ、「メチル」を呑んで失明するひとや命をおとすひとがたえなかった、酒が貴重な配給品の時代だったからである。

しかも、この錠剤を、酒のつまみにするという乱暴な飲み方があったという。

ヒロポンは静脈注射が常習者の使用法だったが、皮下注射の液体と経口の錠剤もあった。
それとおなじに、とくにウィスキーとの相性がよかったという。
強いアルコールが、なんだかしらぬが「中毒防止」になると信じられていたようで医師も推奨したとある。

ならば焼酎、といかないのは、当時の焼酎がこれまた劣悪の代名詞だったからである。

焼酎が市民権を得たのは、はるか後世の80年代で、突如『いいちこ』が出現して、想像をこえる驚きのうまさにあっという間にカネのない学生や若者世代に普及したからである。
だが、戦後の「カストリ」をしる中高年のおとな世代は、よほどの酷い目にあったのか、用心深く「焼酎ブーム」を容易に信用しなかった。

子供だったわたしの周りのおとなは、だいたいが昭和一ケタよりも前の生まれのひとたちばかりで、これらのひとたちは総じて「薬好き」だった。
酒好きだった父親は、もっぱらウィスキー派だったが、安吾のこの作品を読んでもしや?と思いあたった。

物心がついてきたわたしのしるかぎり、海軍の幼年兵から少なくともまだ30代(の若さ)だった父は、『アリナミン』を常用していたし、風邪気味だといえば子供のわたしにも『アリナミン』を飲めばいいのだといって1錠くれたものだった。

あの黄色い糖衣錠が、溶けてそのまま出てくるかとおもうほどわたしの尿は黄色くなった。

このところ、別に「アヘン」の解説『満州アヘン帝国』を読んで、ヒロポンとアヘンの「薬効」の共通点があることに気がついた。

それが、性行為における持続力だ。

もちろんウソか真か、しらないけれど、安吾も錠剤をアテにウィスキーを飲んで、そんな行為ができるものか?と書いている。

だが、戦後日本の夜の世界(米兵もふくむ)で、ヒロポンが流行ったことは、妙にうなずけるのであるし、畠山清行著『キヤノン機関』にある、大陸馬賊に交じって諜報をやっていた中島辰次郎氏の告白にある女首領とのことは、ウィスキーなしのアヘンの効果だとおもえばリアルなのである。

別の『巷談5湯の町エレジー』の文章で、伊豆半島は伊東までとその先とで文化がかわると書いている。
それが当時はやった心中事件とかの後始末を例にするから、迫力というか凄みがあるのだ。

この作品での安吾の書き出しは、
「伊豆の伊東にヒロポン屋というものが存在している。」
だ。

坂口安吾は、伊東で暮らしていたからはなしを盛っているのではない。
ただこの話の真偽を確認しに、伊東の図書館を訪ねたくはなった。

戦争で銃後の内地にいても、空襲やらでえらいめにあうのはふつうだったから、亡骸を目にするのが日常だったことが、いまからすると異様にかんじる。
とはいえ、わが家から徒歩圏の東海道、保土ケ谷宿と戸塚宿の間には、「投げ込み塚」がのこっていて、行き倒れになったひとをここに投げ込んだと説明にあるほどのものだった。

そうやってかんがえると、講和条約の前年に「取締法」ができたのは、日本からの引上げを前提にして、好き放題をやったことの隠滅を意図したのではないか?と疑いたくなるのである。

その好き放題の悪習の名残が、ウィスキーだし、『アリナミン』だった、と。

さすれば、むかしどこにでもあったけど、子供にもなんだか場末感がある『トリスバー』の怪しげな薄暗い灯りとはなんだったのか?

はは~ん、なのである。
それに、むかしは子供を居酒屋とかの呑み屋につれだすおとながいなかったのも、はは~ん、なのだ。

ましてや、わたしが育った横浜は、世界一を誇る港町=世界一荒っぽい街、だった。

いまどきなら、子供連れをありがたる居酒屋チェーンを敬遠する自分がいるけど、どうやら敬遠した当時のおとなの意味がぜんぜんちがう。
男も女も荒っぽかったむかしの自己防衛が、子供連れで呑み屋にはいかないことだったにちがいない。

青江三奈がハスキーボイスで唄った、『伊勢佐木町ブルース』の伊勢佐木町が、昼も夜も横浜の中心街で、まだ横浜駅西口全体が場末だったころ、夜9時台といういまなら宵のうちの時間でも酔っ払いはたくさんいて、親子連れでもふつうに話しかけられたものだった。

当時の東急・東横線は、夜9時をすぎると急行がなくなって、全線、各駅停車になったのだ。

それにしても、いまも「薬好き」な国民性は、世界的に珍奇な薬にも抵抗がないことでわかるのである。

はたしてこれが、「科学万能信仰」からだけのものなのか?

柳田國男で温故知新

この世には「名著」だけでいったいどれほどの書籍があって、それを読破するにはどれほどの時間を要するものか?

昭和5年から翌年にかけて朝日新聞が発刊した『明治大正史』の第四巻が、柳田國男が担当した『世相編』であり、いま、『明治大正史』として復刻発刊されている名著のひとつである。

ために、本書は、朝日新聞版、定本版、東洋文庫版、中央公論社版、講談社学術文庫版、角川ソフィア文庫新編版といった各版が存在している。

柳田が「自序」として書いたなかに、「じつは自分は現代生活の横断面、すなわち毎日われわれの眼前にでては消える事実のみによって、立派に歴史は書けるものだと思っている」とある。
ただし、このあとに、「失敗した」とも残している。

けれども、柳田は失敗なぞしていない。

いまから94年前に書かれた、それ以前の生活の断面は、むしろ貴重な記録として燦然と輝くのである。
しかも、著者は、わが国民俗学の祖なのだ。

柳田自身も、当時の「朝日新聞社」の重鎮であった。
21世紀のいま、倒産の危機にあるとはだれが想像したであろうか?

よって、本書は、まさに当時の一般人向け教養講座のひとつとして書かれているから、まちがいなく読みやすい。
現在のところ版の最後=最新にあたる、「角川ソフィア文庫新編版」では、現代人にわかりやすいよう細い注が大量に配されている。

94年前の日本語の単語が、もうわからないことへの配慮なのであるが、やり過ぎ感があるのは、さらに100年後を見据えているからなのだろう。

欧米の知識人は、一般にいま起きていることの根には、最低でも200年は遡らないとわからないことを常識としている。
「舶来信仰者」からしたら残念ながら、わが国の文化的発展は、欧米の比ではないほどの高度さだったかから、現代日本での出来事の根は200年辿れば済むような簡単さではない。

幕末・明治以来、ふつう、欧米の方が進んでいるものだと決めつけて、戦後はアメリカ一辺倒になったのは、まったく筋がとおらない暴論である。
それは、すこしばかり早かった産業革命の産物としての目線でしかないからである。

文化が衰退すると文明となって、やがてこのサイクルの文明も滅び、あたらしい文化が生まれ、それがまた衰退して文明となることを何度も繰り返しているのが人類だ。

逆に、古くから文化先進国だったわが国では、なかなか文明に堕落するまでの衰退がないので、国民のキャッチアップ速度と津々浦々まで文化が浸透し影響の広まる速度の方が、はるかに欧米よりも高度なので、織豊時代の宣教師や幕末・明治の外国人からしたら、「異常」なまでに見えたのである。

しかし、実質的に世界帝国だった英国の傘下に組み込まれた、明治・大正の時代とは、過去の習慣・風習を急速に捨てる「欧米化=文明化の堕落」で成り立っていたから、(伝統)文化とのトレードオフの関係があった。

おそらく、その捨て方のバッサリ感も、あたかも「ちょんまげ断髪」のごとくで、戦後の高度成長どころではなかったのではないか?

ヨーロッパでいえば、いまだに王侯貴族たちの身分制があることだけを捉えても、わが国の変化は尋常ではないことがわかる。
これはもう、「良い悪い」という問題ではない、別次元で起きたことの事実だ。

当然だが、この書でいう「現代人」とは、昭和5年当時の読者諸氏を指している。
しかし、その浅さは、21世紀まで時代を下るごとに薄さをましていることがわかる。
それは、けっして「研ぎ澄まされた」という意味ではなく、浅はかになる文明化なのだ。

柳田國男の生まれは、明治8年(1875年)で、昭和37年(1962年)に逝去したから、戦後の高度成長を見据えてもいた。

これは別のたとえでいえば、「明治女」を書き残しておきたかった、と執筆動機を語った、橋田壽賀子がいる。

その代表作『おしん』の主人公、谷村しんは、明治34年(1901年)生まれの設定としていたのは、1925年(大正14年)生まれの橋田からみて、自身の母世代のイメージからであると書いている。

還暦を過ぎたわたしからみれば、昭和5年は母の生まれた年であって、明治36年生まれの祖母の話が記憶から呼び覚まされるおもいがする、どこかに懐かしさが湧いてくる本なのだ。

確かに、こんなひとたちがいた。

しかし、やがて、『おしん』さえも、過去と分断された戦後の日本人には、自分とは関係のない「資料」になってしまうのではないか?

さて本書の記述法として、柳田は一切の固有名詞を意識的に排除したことが、一般論として効果をあげている。

いまのひとたちは、「未来志向」という名分で、過去を顧みないのは、進歩主義=社会主義にすっかり洗脳されてしまったからだ。
しかし、『おしん』の前半、すなわち「貧乏物語」へと徐々に戻っていく現実の衰退を通じて、いつしか実感になったときが「復活のとき」になるのか?

温故知新、すら死語になりつつあるいま、読んでおくべく一冊であろう。

いかにして正気を維持するのか?

人生山あり谷ありは誰でも経験するが、自分の劣化を意識してこれを維持する努力をするのはけっこう辛い。

十代の受験は、中学、高校、大学と三回あって、これらをぜんぶ志望校合格してクリアする者もいれば、そうはいかなかった者もいる。

ぜんぶ合格したからといって、その後の人生でつまづく者もいれば、ぜんぶそうはいかなかった者がその後の人生でうまくいくこともある。

ただし、これらの評価は、自己評価と他人からの評価があるので、絶対的なものではない。

悩み、という個人の内面に注目すれば、自己評価がなによりも優先順位が高い。

自己満足度という基準が個々人それぞれにあるからで、これはもう他人が介在できるものではない。

学校の勉強ができることの評価だけで、優秀と外部から評価されて、それで満足している風情でも内面で不安を抱えているひとはたくさんいる。

けれども、社会人になってあからさまに勉強をすると、他人から嫌味になることをおそれて、ほんとうに勉強しないひともいれば、逆に、学歴に関係ないと開き直って勉強するひともいる。

わたしの場合は、素人、というトップからの評価をたまたま耳にして、いわゆる昇華型の欲求不満行動となった。

頭にきて、勉強してやる、になったのである。

しかし、不惑の40代になって気づいたのは、これまでのレベルを伸ばすよりも維持することの方に努力を要することだった。

なるほど、江戸末期つまり明治初期の寿命が50歳だったことの意味を実感した。

生まれてからの一桁から30代までで、あれよと能力の伸び代がなくなるのである。

だから、この間が現役としてもっとも充実した時期となる。

しかし、いまは、その後、が長すぎる。

50を越えて放っておくと衰弱する能力を、いかに維持するのかばかりか、知らないで死ねるものかという気概を持たないと、とうとう正気をなくす。

それが、国会議員をみてわかる、つまり、漫然とした人生をおくった人間たちの集団サンプルなのである。

それをまた、漫然と生きたひとたちが選ぶという、マンガになっている。

70年代、つまりいまの後期高齢者たちが青春真っ盛りだったとき、ニヒリズムが流行った。

けれども、このひとたちのおおくは、ニヒリズムが何かを追求することなく、なにやらカッコ良さげなことばに浮かれたのである。

人生とは何の意味もない虚無である、とはどういうことなのか?

なるほど、いまだけ、カネだけ、自分だけしかない老人になって、敬老、からほど遠い個体となって息をしている。

しかして、やっぱりそれはニヒリズムなのか?

親父狩りにあった世代が、敬老世代だとニヒルな笑いでもして自嘲できるならまだマシだが、そんな者は皆無なのだと、自分よりずっと上の世代をわたしは冷たい目でみているのである。

とはいえ、正気を維持することが困難な時代になっていることは、確かなのである。

だから、自分は正気なのか?と自問しないといけないのは、ほんとうに病院にはいった経験がある、坂口安吾を見倣え!とまででなくとも参考になるのである。

民主党内紛の10月サプライズ

大統領選挙イヤーの10月には、かならず双方の陣営から「おびっくり」すなわち、「オクトーバーサプライズ」があるといわれている。

これがなにか?事前に予測も予想もできないのは、予期せぬ結果、すなわち、「付随的結果」ばかりだからで、それゆえに当事者たちにもなにかがわからないからである。

今回、もしやバイデンがトランプ支持を表明するのではないか?との憶測がでてきたのは、ホワイトハウスでスタッフ同士の殴り合いの乱闘騒ぎがあった?と伝えられていることからの連想ゲームである。

当事者は、大統領側スタッフと、副大統領側のスタッフだったらしい。

組織をつくり、これを動かすのは人間だけである、という基本中の基本がある。
どんなに科学がすすんでも、組織運営そのものは人間がやるしかない。

しかし、この基本を忘れる努力をするのが、共産主義、すなわち、「唯物論」である。
また、共産主義はその唯物論をもって、唯物史観なる、「歴史法則」を真実だと主張する。
法則なら、放っておけばよいものを、現状の破壊活動を通じてやった結果を「法則」だというのである。

しかも、その破壊活動にあたっての組織運営も、人為としての権力闘争までやるのである。

カール・ポパーの主著、『開かれた社会とその敵』(全四巻、岩波書店、)の、後半の二巻が昨年10月に「新発売」になっている。

その副題は、「にせ預言者-ヘーゲル、マルクスそして追随者」だ。

もちろん、トロツキー派に乗っ取られたアメリカ民主党は、その「追随者」にふくまれる。
なので、この組織はマルクス唯一の真理である、「人間を疎外する」のである。
つまり、組織運営において人間の感情を無視する。

それを、「科学的社会主義」だと言い張るところが、もう「空想」でしかないのだが、世代を超えて気づかない愚がある。

どうやら、むりやり再選から降ろされたバイデンは、自分をおとしめた組織に恨み骨髄に徹するほどお怒りらしいのだ。
それで、自分からサッサと乗り替えた、カマラ・ハリスを敵認定したとみられる。
まさに、カソリックのバイデンは「肉食の文化」を激発させている。

これが双方の忠実なるスタッフにつたわって、乱闘になったなら、納得の場面である。

大統領選挙は、激戦各州における勝敗でぜんぶが決定する。
日本のマスコミがさかんに「全米支持率」を言い立てるのには意味がない。
むしろ、投票日直前になって、激戦州のなかの細かい支持者データがあきらかになってきた。

白人至上主義だとレッテルを貼ったトランプの、黒人やヒスパニックの支持が過去最大級の伸びをみせて、さらに若者層からの支持と、労働組合まで加わっている事実に民主党幹部たちに激震がはしっている。

ここにきて、ヒラリー・クリントンが、マスコミはトランプ派のウソを封鎖せよと絶叫したことを、イーロン・マスクが真っ正面から、「言論統制ではなく言論の自由をまもるのがトランプだ」とやり返して、トランプが敗退したら自分は刑務所に入れられるとも発言している。

そんなこんなで、からなずトランプよりも上回っていたはずの社会調査データが、ここにきて歴史的逆転をしていることで、民主党内はパニックになっているという。
そのために、当初マスコミ単独インタビューを回避してきた選挙戦略を転換し、カマラ・ハリスの露出を増やす、イチかバチかの勝負にでたのである。

しかし、カマラ・ハリスをこれまで露出させなかったのは、本人の無能から支離滅裂な言動が仇となると警戒したからで、いまさら慌てて出しても逆効果ではないか?
じっさいに、口を開けばウソばかりの言動に、鉄板の民主党支持者たちが嫌気をさしている。

それでもホワイトハウスでカマラ・ハリスの単独記者会見を準備して、開始数分前の直前に、なんとバイデンが「就任以来はじめて」、報道官室(=大統領会見場)に登場し、カマラ・ハリスの会見をすっ飛ばしてしまった(中止になった)のである。

なぜなら、副大統領会見場にいた記者たちが、大統領会見場にこぞって移動し、だれもいなくなったからである。

これはもう、現職大統領による大統領候補者(現職副大統領)への選挙妨害である。

なんだか、呆け老人を邪険にするととんでもないしっぺ返しがくることをみせてくれたから、孤独な世界の老人にバイデンは喝采を受けているかもしれない。

こんなザマに嫌気を露わにしているのが、あの極左CNNだ。

もう、カマラ・ハリス批判がとまらない。
宿敵トランプを倒すには、役不足も甚だしいとイラついて、その欲求不満行動が肝心のカマラ・ハリス本人への攻撃に向かうという本末転倒をやっている。

どんな選挙方法だったかを含め、予備選挙で圧勝したバイデンをむりやり降ろした事実と責任を追及せずにいながら、それでも民主党幹部を批判できないおとなの事情があるのだろう。
ようは、鬱積した不満を爆発させているのは子供が地団駄を踏むようではあるが、もしや脳内物質の制御ができないのは、ファストフードばかりを食べてミネラル不足になったからか?

デカルト以来、「理性」を前面にして、論理(唯物論)だけでやってきて、人間性を無視する浅はかさを露呈するのは、左翼のお家芸なのであり、それがかならず内紛から内ゲバになるのは法則ではなく「性(さが)」であるし、「業(ごう)」ともいうのは、このひとたちのなかにある欠損した人間性の結論なのだ。

これは、世界の指導者を決めるアメリカ合衆国大統領選挙でのサプライズというよりも、世界に蔓延しているグローバル全体主義の内紛であることが、サプライズなのだし、ざまぁみろといいたい歴史的帰結なのである。

選挙は短期決戦とはいかない

事情がなんであれ、公職選挙法に合法なら何をしてもよいと発想するのを、いけない、といいたいので書いておく。

あと30日もなくなったアメリカ大統領選挙は、年をまたいで行われるほどの長丁場である。

第一に、党内予備選挙で勝たねばならぬ。

次に、大統領選挙は、大統領選挙だけの選挙ではなくて、連邦上院議員の3分の1の改選と、連邦下院議員ぜんぶの総選挙がセットだし、各州ごとだとそれぞれの州ごとや郡ごと、市ごととかでいろいろな選挙が行われることになっている。

なので、有権者は、投票所に行くと30分ほどかかるくらいにたくさんの選挙投票をいっぺんにやるのである。

日本では、そこまで煩雑でないのは、そもそも公職選挙法で選ぶ選挙投票の対象が限られているからである。
さらに、最高裁判所判事の国民審査なんて、あれはいったいなんなのか?

もちろん、地方検事を選挙で選ぶこともないし、都道府県にも市町村にも、司法長官すらいない。

逆に、選ぶ対象者が少ないので、名前と顔と本人のことをしるには、アメリカ人よりずっと有利なのが日本人のはずなのだ。
ところが、選挙期間がやたらと短いので、有権者として立候補者が何者なのかをしって判断するのが困難なのである。

それに、変な貧乏根性が働いて、「選挙広報」が薄っぺらい。

候補者各人それぞれが1ページを使うのだってまだ情報が少ないくらいで、見開き全ページが候補者ごとに割り当てられて、たとえばニューヨークタイムズの日曜版のごとく、分厚くなっても大いに結構なのである。

そこまで政見を語らないといけないのは、候補者に優しくなくとも、有権者には重要なことだから気にすることはない。
こんなことごときで、資源ごみが増えるとかの批判は、ナンセンスといって一蹴すればいいだけだ。

それを主張したいなら、選挙広報にそう書けばよい。

さらに、再選を目指す現職がどんな法案に賛成・反対・棄権したのかの実績を選挙公報には掲載してほしい。
新人なら、参考として、それらの議決に自分が議員ならどうするかも示させることだって、重要な選択のための情報なのである。

また、どんな議員立法に関わったのか?も重要情報だ。

人気のない現政権からしたら、第一に有権者には棄権してほしいだろうし、投票所にやってくる有権者には、わけもわからず適当に選んでもらえば、組織力を持ってして、少ない票でも結果的に有利になると皮算用している。

そのために、短い選挙期間で、既存議員の再選を目指すのは、不公平に他ならない。

こうしてみたら、わが国の公職選挙法は、あたかも、酒税法が徴税当局のためにあって、消費者や製造者に役立たないのとおなじなのである。

そうやってかんがえたら、これも憲法の思想に反していることがわかる。

さらに、べつに「裏金議員」を擁護するつもりは毛頭ないが、総裁の意向だけで、「比例重複」とか、「公認」を取り消されるのは、どういう党内規定があってのことなのか?
議員にとって、最大の関心事なのは、まさに「身分」にかかわる重大事だから、党内規定としてあらかじめルールがないのはおかしい。

しかし、何度も書くが、自民党は「近代政党ではない」という国際基準的にも日本ローカルそのものだから、ぜんぜん民主主義的ではなく、むしろ総裁やら幹事長の独裁が許容される政党だと告白したも同然なのだ。

この独裁政党を、だれも批判しない。

憲法に「国民主権」を書くなら、選挙期間は最低3ヶ月を要するとか、最高裁は積極的に憲法判断をすべきなのである。

政権与党のやりたい放題を観察すると、アメリカにおける「司法の武器化」はアメリカらしいアクティブさがあるけれど、日本における「司法の武器化」は、パッシブであることの大問題があることがよくわかる。

自民党員が必読の『福祉国家亡国論』

このところ万人単位で減っているという自民党員たちだが、年間4000円を払えば、基本的に誰でも党員にはなれる。
ただし、こないだの「総裁選」のように、何年かに一度というときには、名前を貸すことでの「党員」となることもある。

この場合、党費は地元だか何だかの有力議員とかが負担してくれる仕組みで、わたしもかつて、いつだかも忘れたが、党員登録のための名前貸しをしたことがある。
もちろん党費を支払ったことは、人生で一度もない。

それで、投票をするのはわたしの名前を借りたひとになるから、わたしはどんな方法で、投票するのかもしらないままでいた。

なので、ほうとうの党員になるとどんなサービスを受けることができるのか?とか、逆に、どんな負担を強いられるのか?について、詳しくはしらない。

そもそも、地元の市会議員とかの「後援会加入」と、「党員になる」ことのちがいすらわからないままで生きてきた。

横浜市だと、市会議員の後援会、県会議員の後援会、それと国会議員の後援会があるから、全部にそれぞれ加入するのか?それともどうしているのか?もしらない。

それぞれの議員にとっては、自分の後援会が、政治活動のための「組織」になるので、それがまた、党本部の組織とどんな関係にあるのか?もわたしにはわからない。

そんなわけで、自民党総裁の投票権を得るために党員になって、投票したらしばらく休眠するというひともいるらしい。
けれども、公職選挙法と関係のない総裁選の「一票の格差」は、一般党員と現職国会議員とでは天と地なので、よくもまた物好きがいるものだと感心するのである。

さて、手元には昭和50年12月1日、保健福祉開発研究財団刊とある、『福祉国家亡国論』の令和元年復刻版がある。
著者は、元自民党衆議院議員、山本勝市(経済学博士)だ。

ご本人の来歴によると、明治29年生まれで、戦後の昭和20年11月には、日本自由党創立委員で、翌年4月に衆議院議員になっている。
公職追放後、昭和29年に第一次鳩山内閣で通称産業政務次官、自由民主党政調会副会長、総務、財政部長、衆議院大蔵委員長、同懲罰委員長を歴任、とある。

しかしてこの本は、ハイエクやミーゼス、それにレプケが紹介されている、バリバリのオーストリア(ウイーン)学派=自由主義の教科書なのだ。

こういう人物が自民党内での理論家として、何かと政策立案に関わったのは、国民としてハッピーであった。

しかし、この人物がいた時期を含めて、どんどん共産化していく自民党は、この本の真逆を突っ走っていて、かつての見る影もない。
これはいつからのことなのか?

「まえがき」には、昭和30年の春、第二次鳩山内閣の川崎秀二厚生大臣が、衆議院予算委員会で社会保障制度の確立を約束したときからであり、特に、同年11月、与党の民主党と野党の自由党が合併して自由民主党を結成したとき、その綱領のなかに「福祉国家の完成を期する」と明記した、とある。

ようは、自民党は結党のはじめから、社会主義政党なのだ。

ちなみに、「福祉元年」を宣言したのは昭和36年で、いまの社会保障制度(国民皆保険制度)が完成したのである。
これから60有余年、山本博士が指摘したように、計画経済を通じての「ソ連化」で、成長率さえとまって久しい。

おなじ「まえがき」で、福祉国家政策の推進が自由社会の基礎を崩壊させることへの私の危機感、とあるのは、いまにして至極まっとうな「正論」だとわかる。

まさに「福祉国家」が、国家破綻を誘導し、国民生活を困窮化させている。

さらに「復刻 まえがき」では、生活保護を例にして、かつての日本人は(これを受給することを)「恥」と考えていた。
働かなくとも給付され続ける「金」で、我々は何を売り渡してしまったのか、と。

もう、かつての日本人にあったはずの「恥の文化」すら破壊されたのである。

1969年から翌年まで、ほぼ2年間にわたって放送された大人気時代劇、『素浪人花山大吉』でも、「恥の文化」が生きている姿は、もしや、破壊をすすめている現実から目をそらすための教育だったのではないか?といまさらながらに疑うのは、現「テレビ朝日」の「NET(「日本教育テレビ)の略」が作っていたからである。

ただし、「付随的結果」として、いま観ると、失われた「恥の文化」だけでなく、ロケ地の景色も、俳優たちのセリフ外の演技にもさり気ないむかしの日本人の動作があって、現代にまったく失われていることがよくわかるので、もはや「記録映画」としての価値がある。

戦後の原点にあるはずのこの本を自民党員必読だという指導者もいない「党」に落ちぶれたから、国民として何よりも先に滅亡してほしいのが、自民党になったのである。

するとこの一冊は、日本国民が必読の書となる必然がある。

なにせ、「国民皆保険」がいかにひどい搾取(=国民奴隷化➡︎家畜化へと退化させる)の制度であるということが、正面切って書いてあるものだからだ。

いま、ミーゼスの『マルクス主義の正体‐人類を破滅させる妄想体系』が復刻出版されている。

併せて自民党員なら読むべき一冊だろう。

中東は大丈夫なのか?

挑発するイスラエル、自制するイラン、という構図は、そのまま、挑発したウクライナ、自制して堪忍袋の緒が切れたロシアという「歴史」のパターンにあてはまる妙がある。

イスラエルの仕掛けた事があるごとに、プーチン氏自身やロシアの首相がテヘラン入りして、最高指導者や大統領と会談しているパターンも繰り返されている。
つまり、ロシアが情報分析を教えつつ、相手の狙い=罠、に注意を促しているのだろう。

じつは、プーチン氏も口にしているからまちがいなのは、この「パターン」こそ、米・英の戦争屋たちがむかしから仕組んでいるもので、日清・日露戦争における日本があたかもいまのロシアに該当する。

「三国干渉」から、「臥薪嘗胆」をして、ここ一番の肉弾戦をやったのが日本だった。
けれども、国家破産寸前までになったのを国民に秘匿し、一切しらせずにいたので、獲物があるはずと犠牲の見返りを当然としていた国民は、ポーツマス条約の空土産に発狂して焼き討ち事件(暴動)となったのである。

試験暗記だけで何のことかのイメージがなく、いまいる自分(個体)とはなんら関係のない他人事になったから、この歴史に気づかない日本人は、ふたたび英・米の戦争屋たちが仕組んだ、第二次大戦への引きずり込まれ方に疑念すらないから、なんども騙される愚をおかしても気にもとめない。

まことに、歴史を忘れた民族は滅ぶ、という格言通りの状態におかれているのであるし、先祖からの世代間とか血筋とかの連続を忘れた、唯物論のアトムと化した日本人は、ただ個体の集団となっている。

もちろん、テレビのワイドショーは、真顔であっても真の世界情勢を伝えない、ために、日常茶飯の話題を拡大解釈してどうでもいい話をたれ流すばかりか、日本人を世界情勢音痴にさせる努力に予断がない。

中東のとくにホルムズ海峡付近が怪しくなれば、テレビを観る電気すら供給されなくなるのに、だ。

アメリカ大統領選挙一ヶ月前になって、いまは、たまたまアメリカ民主党・バイデン政権をしても、大戦争に拡大する時期として最悪だ。
ために、やるなら選挙後としたいのはやまやまなれど、ネタニヤフ政権がいうことをきかない様相になっている。

まさか、一発でも戦術核を用いたら、えらいことになるのは子供でもわかる。

それに、アメリカ地中海艦隊の空母が、イスラエル沿岸にいたのに、こたびのイランからの弾道ミサイル飽和攻撃には無力をさらけだしてしまったし、軍用空港ではイスラエル軍のF35戦闘機が駐機場で30機も破壊されてしまったらしい。

不気味なのは、かつての中東戦争とちがって、アラブ側がまったく静かなのである。

エジプトにはかつてのアラブの盟主を自負するような力はなく、サウジもUAEも沈黙している。
イランが支援する、イエメンのフーシ派があばれて、紅海の入口、バブ・エル・マンデブ海峡を封鎖したことで、エジプト経済の命綱、スエズ運河通行料収入の大減収が国家経済破綻への地獄の入口になってしまったのである。

これら一連の問題は、トランプ政権1.0をちゃぶだいがえしした、民主党政権による「国際秩序破壊」の賜である。
プーチン氏が見抜いているのは、かつてのソ連が世界でやったKGBによる破壊工作の内実を熟知しているからにちがいない。

なにせ、プーチン氏はそのKGBの出身なのだ。

皮肉なことに、ソ連崩壊後、英・米の強欲資本主義者たちが貪ったロシアの富を、防衛・救国したのがKGBのOBたちだったのである。

わが国の残念は、GHQ支配となった現実に、戦前・戦中の高官(文民だけでなく武官や諜報機関も)たちが、こぞってアメリカの協力者に身を落としたことにある。
「戦犯にするぞ」という脅しが有効だったとはいえ、地位保全のエサに食らいついたのだ。

この節操のなさを、イラク人にも通用するとおもったらぜんぜんダメなので、アメリカ(軍産複合体)の支配計画が頓挫し、サダム・フセインがまとめていたイラクは無法地帯と化した。
その原因こそ、日本人の「長いものには巻かれる」思想であるために、これがない意趣返しのクルド人たちが埼玉県で暴れているのだろう?とかんがえるのはいきすぎか?

さて問題は、イスラエル・ネタニヤフ政権とあまり良い関係ではないとする、国内で有名な諜報機関との軋轢がどうなったのか?にある。
ただ、レバノンのテロ指導者を暗殺した実績から、ネタニヤフ政権は自国の諜報機関と折り合いをつけたのか?が気になるところだ。

確実な攻撃のため、だれがいつどこにいるのか?の正確な情報は、相手内部に協力者がいないとぜったいにつかみえない情報だからである。

トランプ氏暗殺未遂2.0では、逮捕された犯人はその前と同様「単独」であるというが、どうしてあのゴルフ場のあの場所に、あの日のいつごろトランプ氏が現れるとの情報を得たのか?について、FBIが発表することはないのだろうといわれている。

こうした隠蔽体質が、一般アメリカ人の現政権への不信感を醸成させているのに。

アメリカ民主党支持者の4割が、パレスチナ支持になって、イスラエル・ロビーは、すでに民主党を見棄てて、トランプ支持に鞍替えしている可能性もある。

一般にいう、大統領選挙恒例の「オクトーバーサプライズ」はいま、一部の「噂」だが、激戦州を襲ったハリケーン被害にバイデン政権が対処しないのは、最大被害地域がトランプ支持層の厚い地域と一致するために、選挙投票をさせない狙いがあるといわれている。

アメリカも批准した、1976年12月に国連で採択された、「環境改変技術(気象兵器)敵対的使用禁止条約」の存在が注目されていて、このハリケーンもそれ(=気象兵器)ではないか?との疑念がおきている。

なにしろ、自国民を襲おうが、勝てば官軍とかんがえるのが民主党=グローバル全体主義=トロツキー派(世界同時革命派)共産主義者の発想だからだ。

そんなわけで、中東が危ないのは、ウクライナがロシア勝利で終息しそうだからであるし、東アジア・極東も狙われている可能性がある。

アメリカ軍は、大量の在庫をウクライナに渡したことになっているので、なんといま、自分たちで消費するための武器弾薬の在庫がない現実がある。

物理的に、世界の警察官としての紛争介入ができない戦後史上初の状態なのである。

共和党はFRBを解散させるのか?

前回2022年の中間選挙で、アメリカ連邦下院議会は、久しぶりに民主党から「多数党」の地位を奪い取った。

共和党は、トランプ氏の4年間以降、急速に体質改善が進んで、かねてからの「金持ちの党」から、いまや「庶民の党」になっている。

それが証拠に、国内最大規模の「全米トラック運転手労働組合」のアンケート調査で、組合員の6割がトランプ支持を表明したので、民主党支持でかたまっている組織執行部としてようやく「支持政党無し」を決める事態にまでなっている。

民主党支持が鉄板の労組として、「異例」の決定なのである。

さらに、今月に入って、東海岸の港湾労働組合がストライキに突入した。
なんと、5割の賃上げ要求を掲げている。

もちろん、この労組も民主党支持でやってきた。

しかしながら、大統領選挙直前にストライキを決行する意味は何か?
さっそく、バイデン・ハリス政権は、「労組の決定に政府は関与しない」との声明を出して逃げを図っている。

岸田内閣は、とうとう能登半島地震の被災・復興を無視して退陣した。
おなじく、バイデン・ハリス政権は、巨大ハリケーンによる驚異的な被害について、コメントすら発していない。

まったくもって、自公政権とアメリカ民主党は発想がおなじなのだ。

トランプ支持のイーロン・マスク氏は、トランプ氏からの私財をもっての救援を依頼させたけれども、現地の民主党が支配する自治体やらからの執拗な嫌がらせ・妨害を受けて、おもうように被災者のもとまで支援物資を届けることができない、とつぶやいている。

党利党略も、ここまであからさまだと、被災住人だけでなく一般人も呆れるばかりなのだ。

あえて被害に目をつぶれば、「自己責任」という言葉と、アメリカ伝統の「自主の精神」とが重なって、政府に依存してもなんにもならない、ことをアメリカ人に教育しているのが民主党だし、まったくのコピーが能登の実態なのだ。

こうしたことから、共和党トランプ派は順手(「逆手」ではない)にとって、国民生活を縛る悪の元凶として、FRB(連邦準備銀行)の廃止を議会提案(法案提出)した。

ちなみに、アメリカ議会は、「政府立法(内閣提出法案)」ばかりの日本とちがって「議員立法」しかない。
わが国のしかるべき「憲法改正案」には、政府立法の禁止を入れるべきではないか?

国権の最高機関を議会に戻すべきなのである。

国会議員とは、法律を立案するのが主たる業務のひとたちをさすのに、たとえば、ゴミぶくろうのように、議員になってから一回も議員立法を提案したことのないひとを国会事務局はちゃんと公開して、選挙制度上の「欠陥議員」として、有権者に知らしめるべきである。

また、わが国の法制は、アメリカのように「上書き式(新しい法が古い法に優先する)」ではなく、関連法との条文調製をするために内閣法制局がしゃしゃり出ることも再検討を要する。

その上での妄想を語れば、アメリカが、完全なる共和党政権(大統領、連邦上・下両院支配)になって、FRB廃止法が通過したとき、日本には、日本銀行をどうするのか?が飛び火するし、ヨーロッパも、ECB(ヨーロッパ中央銀行)をどうするのか?に直面する。

ハイエクが70年代に予言したのは、ECBの失敗(「ユーロ」のコントロール不全)からのEU崩壊であった。
いまは、移民問題からEU崩壊という局面になっているけど、推進しているのはグローバル全体主義者たちなので、マッチポンプ状態を自らつくっている愚がある。

そんなわけで、「増税路線」を隠さない、自民党と立憲民主という同じ穴のムジナに、日本人はどう対処するかの選択が今月にやってくる。

もしも、これらが生き残っても、共和党が押し潰しにくるのである。

11月5日は、運命の日になる。

公正さを失った放送局の恥さらし

世界が注目する中、現地時間の1日、アメリカCBSニュースの主催で行われたのが「副」大統領候補討論会だった。

これが投票日までの期間で最後の候補者討論会だというのは、カマラ・ハリスが要求した3度目の大統領候補討論会について、トランプ氏が拒否したからだ。
例によって例のごとく、大手マスコミは、トランプが逃げた!、と宣伝している。

この事情は、1回目が、バイデンを撃沈させたあれだし、2回目ではカマラ・ハリスを沈没させたので、もういいだろう、というべきとろだが、じっさいに、1回目のCNN、2回目のMSNBC、そして今回の初となる副大統領候補者討論会の、CBSと全部の放送局が、親民主党・反トランプの姿勢をあからさまにしているからである。

これは、前回4年前もおなじであったから、変化も進化もしていない。
けれども、ぜんぜん「モデレート」ではないのに「モデレーター」と呼ぶ司会者のあからさまな偏向ぶりは公正さを事前に放棄したとしても、もはや望むべく「討論」にはならない。

アメリカのマスコミは、自社の政治的立場をあらかじめ明確にして、読者や視聴者にも公表するということはやっている。
だから、以前は、気に入らない新聞やらテレビ・ラジオは観ない・聴かないという選択ができたものだった。

しかし、昨今は、ジョージ・ソロスやらの「株主資本主義」という、株式保有率による株式投票権支配=経営(権)乗っ取りが行われて、もはや全マスコミが民主党支持を株主から強制されるまでになってしまったのである。

よって、単なる出演者にすぎないキャスターたちは、経営方針に従って民主党への偏向を行わないと、「上」から解雇されるのだ。

このような強制が白昼堂々おこなわれるのは強欲資本主義を抑制させるための、「独占禁止法」を、行政が民主党政権による政治的に作動できないとこうなる、という見本になっている。

禁欲的道徳が社会に満遍なくあることて初めて存在できる「資本主義」の脆弱性を保護するために、独占禁止法が必要なのだ。

ここで、いったん話を「資本主義」に振り返ると、「株主」とか「強欲」とかをわざわざ「資本主義」に連結させるのは、本来の「資本主義」とはちがいますよ、という意味の表記であると気づかないといけない。

これらは、しっかりと共産主義者が考案した、資本主義に対するイメージ悪化のためのキャンペーン用語なのである。

厳密にいえば、上で書いたように、「資本主義」には社会が道徳に満ちている、という成立条件が必要すなわち、決定的な脆弱性があるために、アイン・ランドがいうように「未来のシステム」であって、人類はいまだ「資本主義」を経験してはいない、という論が成り立つ。

だがしかし、このブログで何度も書いてきたように、わたしは、江戸時代から明治の日露戦争までの時代が、人類史上で初めてにしていまのところ最後の「資本主義の成立した時期」だったとかんがえている。

残念ながら、自民党やこれをシンクタンク機能として支えている官僚機構は、再び日本における資本主義の成立目指すのではなくて、国民を強権的に支配する方向、つまり、グローバル全体主義(共産主義)に向けて疾走しているのである。

アメリカのマスコミの翻訳記事しか送ってこない「特派員」は、東京のデスクが、まともな独自レポートをもっと上の「編集方針」によって没にすることを熟知している。
送信記事の不採用本数だけが、当座における減点主義の社内評価なので、地位と収入の両面から、デスクが気にいる記事しか書けない。

これを、カネを出して読者や視聴者は強制的に買わされているので、もはや買う必要がなくなったのである。
そうやって、無料配信しても収益となる別のビジネス・モデルを構築した「ヤフーニュース」が、わが国におけるニュースシェアのトップになった。

けれども、だからといって信頼できる情報がただで手に入るものでもない。
玉石混交ではあるが、「X(旧ツイッター)」が世界最大ニュースサイトになったのは、もちろん偶然ではなく、おおよそ大卒の一般人が自分でファクトチェックができるくらいの能力があると証明している。

そうやって、有料のマスコミは「貧すれば鈍する」におちいった。

大金を出資してくれる大株主の意向にはまりこんで、ますます本業における客を失っているのだ。
しかして、経営赤字となって株価が無価値となれば、高いカネを出した者たちも困るから、早くマスコミを経営困難にさせることが、いまやまともな一般人の喫緊の課題になっている。

さらに、共和党が、行政=大統領、立法=連邦上・下院を支配できれば、正しく独占禁止法が適用されるような司法省の動きになるだろう。
ただし、SESの資格をもつ高級官僚たちが、いうことをきけば、という条件がついてくる。

大統領選挙後の共和党トランプ政権2.0には、SESたちとの死闘が控えている。
トランプ政権1.0での苦い経験が、どんな手をかんがえついているのか?
それがまた、わが国の官僚機構にも影響することは必至なのである。

アメリカが変わると、日本も変わらざるを得なくなる。

現状では、まずは、この構造変化に期待したい。