新聞記事をどんなに集めて読み込んでも、歴史にならない、といったのは名著『明治大正史 世相編』における「自序」で告白した柳田國男であった。
なお、残念なことに、全6巻から「世相編」以外の他の5巻は、国会図書館で閲覧するしかない。
朝日新聞には、是非復刻してしてもらいたい。
さて朝日新聞の重鎮でもあった柳田が、新聞の限界を語ったのは、新聞が書かない、もっといえばフォローしきれないおおくのことの積み重ねが「歴史になる」からである。
似たようなはなしに、「統計」がある。
データとして集め加工したものが統計量となって世間に発表されるけど、そもそもデータとして扱われないおおくのことは、統計としてわかりようがないからである。
それにまた、統計に見せかけたゴミが大量に生産されていて、その背後に「ごみデータ」の使用が山のようにあるから始末がおえなくなるのである。
統計の基本として、ごみデータからはゴミしかでてこない、がある。
これにくわえて、「因果律」の誤用もあるから、現代人は正しい統計知識を持たないと、すぐさま騙されてしまう危険にあふれている。
「因果応報」の「因果」のことで、原因と結果の短縮語であるけど、結果から単純に原因をいいあてることはできない。
たとえば、有名な誤用として、文科省のポスターにどういうわけかいつまで経っても訂正もなければ詫びもない以下がある。
それは、「成績優秀な子供は朝ごはんを食べている、ということに基づいて、朝ごはんを食べれば成績が良くなる」と明記したものである。
よく読めば、前段の「成績優秀な子供は朝ごはんを食べている」と、後段の「朝ごはんを食べれば成績が良くなる」に、因果関係はぜんぜんないことに気づくだろう。
これが、文科省のお役人様の数学的リテラシーのレベルの低さを表しているのだが、もう笑って済まされるはなしを超えていて、彼らは「朝ごはん」に予算をつけるに至っているのだ。
国家はどこまで個人の生活に介入するのか?をかんがえた場合、共産化が止まらない、といえる。
それで、「専業主婦」という職業には、(経済的)価値創造の尺度が与えられていないので、データの取りようもなから、統計に出てこない。
これをまた、むかしの経済企画庁があった内閣府や、総務省統計局、あるいは経済産業省、最新ではこども家庭庁のお役人様は、データがない、ことからの因果律の誤用をして、「専業主婦の労働には経済価値がない」という暴論を吐いて平然としている。
ならば、「家政婦」さんの価値創造をどう見るのか?と問われると、話題を換えて逃げるが一番となる。
こうして、何もわかっていないことだけが質問者にはわかるのであるが、カマラ・ハリス同様に、問われた本人には自分が理解不能だということも理解できないのである。
もちろん、一口に「専業主婦」といっても、申し訳ないがピンキリの幅があるはずだ。
優秀な専業主婦は、「家事」における専門家としてのあらゆる情報収集と、活用の実践を心がけていて、たとえば「食生活」における、「医食同源」の発想から、家族の栄養だけでなく健康に関しても気を遣っている。
すると、ピンとキリの差は、時間経過とともに、家族の健康が失われ医療費が嵩むようになるのと、その逆のことが起きて、驚くほどの「経済格差」を生む原因となる可能性が高いばかりか、外で働くことでの稼ぎよりも、ずっと大きな価値の差になり得るのだ。
それがわたしがいいたい「家政学」の重要さなのである。
また、自動車ローンの契約でも必須である、「金利計算の知識」は、いま学校の「家庭科」で扱っていると書いた。
上の例でも示した、トンチンカンな文科省は、高校生に必須だといって「金融リテラシー」なる授業をやっているが、なんのことはない、証券会社の営業マン氏が講師になって登壇し、投資商品を紹介をしているにすぎない。
賢い主婦とは、国家管理の栄養士でもなに士でもなく、自分の家族のために的確な情報を受け止めて応用できるひとを指すのだ。
すると、そんな素地をどこで磨くのか?が問題になってくるのは、『産学連携と科学の堕落』にあるように、国家管理の大学(研究予算の配分を国がやる)では役に立たないからである。
つまり、「士業」としての勉強ではない、もっと応用範囲が広大な「主婦」としての基礎から学ぶべき場所が、この世に皆無だということがわかるのである。
「奥」の一切を取り仕切って、この分野では主人さえも口出しできない「奥様」を養成するにはどうしたらいいのか?
「女子教育」の重要性はここにあったはずが、子育ても含めてまったくのお門違いとなったので、家族が衰退し、ひいては国家も衰退がとまらないのである。
これらを政策として、わざと国が推進するのは、家庭=家族の破壊が共産化=全体主義への近道だからである。
そんなわけで、家庭から主婦をなくして、外部社会で働かせるための税制やらを用意して、ダブルインカムでも贅沢な暮らしができないように、夫婦が揃って働かないと生活できない賃金体系をつくったのである。
これに阿呆な経団連を代表する民間経営者たちが、目先の人件費コストのダウンによろこんだら、少ない賃金による消費が減ってあたかもデフレになってしまった。
そこで懲りずに国家依存して、アベノミクスなる社会主義(福祉分配)経済政策を「保守」と呼んで、国民乞食化の長期低迷を固定化したのだった。
すると、日本経済の処方箋はなにか?を問えば、ミーゼス、ハイエク等のオーストリア(ウィーン)学派の主張しか選択肢がないことに気づくのである。
トランプがこれをふたたび実施する。