そもそもの原因が変だ

他人を悪い結果の原因に仕立てあげれば、ほんとうの原因が隠されるから、それにかかわる責任が回避できる。
うまくいけば、原因とされた本人までが自分が原因だったと思い込んでくれるので、一種の「完全犯罪」ができあがる。

これは、企業組織での「問題解決」の基本的な訓練の有無による結果でもある。
すなわち、「なぜ?」を繰り返すことができるか?ということだ。
「問題解決」の組織的名人たちは、トヨタ生産方式によって訓練されている。
「トヨタ式」では、「なぜ?」を「五回」繰り返すようにしている.

一般的にベストセラーになったのは、ポリア『いかにして問題をとくか』(1975年)だろう。

だから、ニュースにおいても、読んだり聴いたりしたことを鵜呑みにするのではなくて、興味のある話題のひとつでもいいから、「なぜ?」を繰り返してみるようにすると、あんがい「ニュース」での解説や説明が、いい加減だったり、めちゃくちゃ加減に気づくようになる。

これが、自分でかんがえる、という人間がほんらい持っている能力であって、この能力者があつまってはじめて「民主主義」というものが成立する。
そうではなくて、楽ちんな鵜呑みばかりで事足りるとするひとがたちが多数を占めれば、民主主義の名の下に「全体主義」がうまれることは、たかだが100年前の歴史が証明済みだ。

そんなことをかんがえながら、さいきんのニュースをいくつか拾うと、完全犯罪がみえてくる事例がある。
札幌でのガス爆発事故だ。

不動産屋が管理する部屋に、入退去の際に消臭剤を撒くことをしないでいた。
それでも消臭剤の購入だけはやっていた。
買って納品された消臭剤をつかわないのだから、在庫はふえる。
それで、じぶんの店舗改装で、店内にある大量の消臭剤の在庫を処分しようと、これを散布したら、爆発した、という事件である。

悪いのは誰だ?
消臭剤を撒くはずが、それをやっていなかったのが、問題なのだ。
しかも、不動産屋は撒いたことにして、顧客からその料金をせしめていた。
だから、物件を吹き飛ばしてしまった不動産屋が謝罪した。

一見して、だれがみても悪いのは不動産屋である。
しかし、ほんとうにそうなのか?
物理的な原因である「スプレー缶」に注目すると、「可燃性ガス」と表示はされていただろう。
2002年に、わが国では「フロン回収・破壊法」ができてから、スプレー缶に不燃性だったフロンガスは使用できなくなっている。

オゾン層破壊と温暖化防止が、法の趣旨で、2015年に「フロン排出抑制法」ができた。

ここで重要なのは、スプレー缶のガスが「可燃性」で、しかも、おおくは「LPガス」がつかわれていることにかんする「啓蒙活動」がないことだ。
啓蒙の方向が、オゾン層破壊と地球温暖化防止になっていて、利用者にとっての危険性の啓蒙はしていない。

「環境保護」という政治目的を司る環境省、「業界保護」という産業優先目的を司る経産省のそれぞれの「立場」から、国民生活を見る目は、まったくない、のは趣旨に忠実なら非難されることではない。
縦割りの常識からすれば、国民生活センターや総務省消防庁が「やるべき」ことなのだろう。
だから、環境省の役人も経産省の役人も、なにもしない、ということが「正義」になる。

そういうわけで、国民のための政府が国民から乖離すると、こうなる、という典型事例なのである。
被害者は常に国民であって、加害者は「存在しない」という建て付けになっている。

それで、室内に大量にスプレーを放出することは、消臭剤の散布という意味のほかに「LPガス」の散布ということだということが、おそらくやった本人が意識していなかったこと、になる。

警察は、どうしてかくも大量のスプレー缶が在庫されたかを調べているという。
それは、爆発させるためではなく、インチキをしていたからだが、危険性の認知という点ではたして立件できるのか?
けが人が出ているから、過失傷害しか問えないのではないかと想像する。

「過失」とは、「LPガス」だということをしらなかったという意味だ。
国民に啓蒙しなかった、という国家の役所による未必の故意を、国家権力である警察が問うことをするはずがない。
悪いのは、「可燃性」と赤い文字で大書してある注意書きを読まなかった、というわけだ。

もう一つの事件は、韓国艦艇による自衛隊機への火器レーダー照射だ。
報道では、米軍なら、といういいかたで、ふつうの軍隊なら即座に照射された側からも反射的に攻撃するのが常識だから、韓国艦艇は撃沈されても文句はいえない、と解説している。

だから、自衛隊機は被害者ではあるが、攻撃をとどめてあげたのだから、ありがたいとおもえ、という意味になる。
このさい、相手がどの国かは関係なく、自衛隊機がどんな理由であれ攻撃として実弾を撃てるのか?という問題がかくされている。

つまり、この問題の本質は、日本国憲法にある。
それで、憲法改正というはなしがかならずでてくる。
わたしはむしろ、憲法第十三条と、憲法制定時と国際的な環境がかわったことを現実として、「事情変更の原則」をもって、第九条の無効、がもっとも合理的とかんがえる。

拉致事件しかり。

国民が憲法によって殺されたり、棄民の対象にされることを黙殺する政府こそ、不道徳のきわみである。

わが国の閉塞感の正体とは、このような「不道徳」が常識とされるようになったことだとだれもいわなくなったことだ、とおもう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください