安倍首相がきらわれるわけ

タイトルはぜんぜんちがうが、昨日の記事のつづきである。

「政治の停滞」がいよいよ深刻になってきていることの勝手な分析を、選挙でうるさくなる前に書いておこうとおもう。

ヒトラーとスターリンという独裁者として有名なふたりは、犬猿の仲だったことがしられている。
どちらからも互いに「大嫌い」で、その嫌悪感が歴史としてあらわれたのは、それぞれの国民にとっては命がけの大迷惑であった。

なぜにこの二人は「大嫌い」どうしだったのか?
もちろんパーソナリティーの問題ではあるが、「公務・公職」において大嫌いなのだから、ちゃんとした理由があったはずだ。

それは、「ファシズム」と「マルクス・レーニン主義」の「親和性」にある。
「ファシズム」は「極右」、「マルクス・レーニン主義」は「極左」という見かただけではだまされる。

「自由主義」の反対は、「社会主義・共産主義」である。
この視点で見ると、ヒトラーとスターリンは自由主義者の「はずがなく」、むしろおなじ括弧のなかにおさまる。
ヒトラーのナチスは、「国家『社会主義』ドイツ労働者党」。
スターリンのボルシェビキは、「ロシア『共産党』」。

自由主義の反対である、「社会主義・共産主義」の枠にピッタリとはまる。
なんのことはない、「同類」なのである。

「同類相哀れむ」というのは,かれらには通用しない。
これは、磁石の「極」とおなじで、同類はかならず「反発」しあう力学がはたらくようになっている。

その理由はかんたんで、支持者の「マーケット」がおなじだからである。
なので、「近親憎悪」になるのである。

自由主義者は、ぜったいにかれらを支持しないから、かれらも自由主義者をあいてにしないし、政権を奪取すれば弾圧の対象にする。
それで、かれらをして「マーケットイン」させるのは、「社会主義・共産主義」に親近感をもつひとたちにむけるしかない。

そこで、熾烈な支持者獲得競争がおこなわれるから、政治的に犬猿の仲になるのは、当然のなりゆきなのである。
「右」とか「左」だといって、互いに批難をくりかえすのは、かれらの土俵上「だけ」であって、ほんらいここに自由主義者は無縁である。

ようするに、過激派の「内ゲバ」とおなじ構造なのである。

その「特殊な用語が拡張」されているのが、いまのいいかたなので、「右・左」とか、「右翼・左翼」といういいかたに巻きこまれると、なんだかわからなくなってだまされるのだ。
だから、「自由主義」と「社会主義・共産主義」とに用語をわけてつかわないといけない。

そこでわが国の自由民主党という政党をかんがえると、かれらは「保守」ということになっている。
「保守」というのも便利かつややこしい用語で、なにを保守するのか?という対象によって、意味がぜんぜんちがうことになる。

いわゆる「正統な保守主義」は、伝統をおもんじる英国の発祥で、『フランス革命の省察』を書いたエドマンド・バークを「父」として、トクヴィルやチェスタトン、オルテガといったひとたちに継がれている。

ほんとうは、英国よりはるかに伝統をおもんじていたのが日本だったが、戦後、「伝統」の理論化に失敗してこんにちにいたっている。
皇国史観の大家、平泉澄『物語日本史』(講談社学術文庫)は、戦後、子ども向けに書いたもので、タブーあつかいになっているけれど、念のため通読する余裕がほしいものだ。

  
  

しかし,一方で、たとえば、共産党のなかで「保守派」といえば、これらの譜系とはまったく関係ない、むしろ真逆の「真性・共産主義者」を指すから、「用語」としてはあまりつかってはいけない。

また、「保守主義」と「自由主義」も概念がことなるので、いっしょにはつかえない。
楠茂樹・楠美佐子『ハイエク -保守主義との決別-』(中公選書、2013年)にくわしい。

「保守合同」が1955年になされたときの「保守」とは、吉田茂の「自由党」と、吉田に追い出された鳩山一郎が、吉田と折のあわない岸信介とで「日本民主党」をつくって対立したが、社会党の左右合同に触発されて一緒になったという、政治哲学とは無縁の合体経緯であった。

社会主義に親和性が強かった岸が、社会党に入党しなかったのはなぜだかしらないが、自民党の「党綱領」をみれば、「進歩主義」をうたうこの政党が「社会主義政党」であることを自称していることに気づくだろう。

そういう意味で,自民党の正体は、まったく日本的な(英国や米国とはちがう)、自由主義と社会主義がまざりこんだ得体の知れない政党なのである。この得体の知れない政治集団を、「保守」と呼んだことに、わが国の政治的混乱が用意されていた。

碩学、小室直樹が、これを「鵺(ぬえ)的」と表現した理由である。
「鵺」とは、わが国最強の伝説的「妖怪」をさす。

自民党の幹事長経験者の小沢一郎氏が、なんども政党を統合したり分裂させたりする原理は、保守合同のいかがわしさを、いかがわしいとはせずに、できあがったそれを原点としていられるからだろう。

いまだに、心底、もっとも根源的な自民党員であるのだとかんがえればつじつまが合う。
本人にも、支持者にも、悲劇的な発想の持ち主だとわかる。

一方、あまりにも小数だが野党第一党ということになっている「『立憲』民主党」というのは、上述した正統保守の譜系からなる「立憲主義」とは縁もゆかりもないことは、共産党のなかの保守派とおなじであるから注意がいる。

つまり、「枕詞」としての「立憲」だという意味で、ちょっとだけ古典文学の伝統をかすっているだけであるから、なんてことはない「民主党」のままなのである。
この遊び心を理解できず、政権党だった民主党が解体されたのは、ブラックジョークとしかおもえない。

以上から、現在の安倍内閣をみれば、おそらく自民党の歴代内閣でもっとも「左派」、すなわち「社会主義」を標榜している政権であることが理解できる。
田中角栄内閣の「社会主義性」の、進化し、かつ、純化した結晶のようなものである。

それは、国家が富の配分をきめることに注力する経済政策にしっかりあらわれていて、「福祉元年」を高らかにうたった角栄節の洗煉されたすがたなのだ。

それに、流動化する東アジア情勢をみれば、国防にも手をつけざるをえないのは当然だから、これをもって「右傾化」というのは、たんに中国に隷従したいことの裏返しにすぎない。まさに、それが「右傾化」という上述した意味不明の「用語」をちゃんと使用していることに注意されたい。

そんなわけで、かつての全共闘の闘士だったお年寄りたちが、「安倍政治を許さない」のは、かれらの主張のほとんどが「保守党」によってかなえられてしまっていることへの「憎悪」と、共産中国へ隷従せよと叫んでいるのだとしかおもえてならない。

消費増税を「やらない」といって「やった」民主党政権だったから、ことし予定されている消費税増税に反対できないのは、「民主党」のままである「立憲民主党」としては、律儀なことである。
両院とも「予算委員会」で、野党質問に一言もない不思議のこたえだろう。

「増税分」が、予算にはいっている「予算案」の検討なのに、これを質問しない,という点で、「党利党略的」すぎる。
しかし、夏の参院選まえに、増税やめたといって自民党が勝利するシナリオに、すでに加担しているとうたがっている。

つまり、社会主義・共産主義を標榜する「野党」が、社会主義の自民党政権の政策に丸呑みされて、真っ向対立しようにも、爪先のひっかかりすら存在しない状態に業を煮やして、なんとか対立しているようにみせようと、スキャンダルに議論をむけるしかなくなったというお粗末になっている。

安倍首相がきらわれるわけは、このように「近親憎悪」というメカニズムによる。
東アジア近隣諸国も、同様の憎悪をしていることだろう。

そんな首相をトップにして、絶対多数を選挙でえているのに、なにもできない政権党は、いったいなにをしたいのか?と問えば、保守合同前からのほんらいの「自由主義」政策を実行する気などぜんぜんなく、むしろ「日本民主党」的になっているのは、岸信介の孫としてはあっぱれなことだろう。

そういう目でみれば、安倍氏の「民主党」と、枝野氏の「民主党」が、内ゲバをしているのである。
これに、マンガしかみない吉田茂の孫が、脳天気にもまったく気づいている風情もない絶望がある。

国民の不幸はとめどもなくつづくようになっている。

野党の反対で「なにもできない」のは大嘘で、ほんとうは「なにもしたくない」のだ。
これぞ、「安定は希望です」とした、もうひとつの連立与党のご意向でもあるのだろう。

ため息。

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