「むかしばなし」をつくる

現存するわが国最古の「物語」として、「竹取物語」がある。
驚くべきは、その話を日本人ならいまでもだれもがしっていることにある。

一応、この作品のジャンルは、「おとぎ話」ということになるという。

かぐや姫が、月に向かうなど、「荒唐無稽」をもっていうらしい。
残念ながら、かぐや姫をとりまく月世界のひとたちが、どうして移動できるのかとか、なぜに竹の中に乳児がいたのか?などの説明を一切してくれないなので、「SF(Science Fiction)」とは認めてもらえていない。

作者も、正確な成立年も不詳のままだが、どうやら「かな」で書かれたことは、まちがいないようである。

すると、作者はやっぱり宮廷の女性なのか?

貴族たちの生活のありさまに詳しいからであるし、なんとも貴族の男性を皮肉っている、上から目線なのも、「女尊男卑」の日本らしさにあふれている。

わが国があたかも「男尊女卑」に逆転したのは、鹿鳴館での連夜の夜会をもって諸外国と対等のように振る舞ったのと同様の浅はかがある。
けれども、「華族」すら、家政は正夫人の専権事項で、主人も口に出せない、「女尊男卑」が本音の常識だったからできたことでもあったのである。

なので、「文明国」として、男尊女卑を見せかけにやっていただけなのだった。

この意味で、ヨーロッパにおける発想の野蛮さがわかる。
彼らは、女性を「所有物」としてかんがえていた。

ただし、女性側は敬虔さと神秘をもって、女尊男卑の発想があり、女性に参政権を付与しようという男性に大反発して、パリのシャンゼリゼを100万人のデモ隊で埋めたことがあったと書いた。

子どもを産むことができる、神聖な女性を、「汚い政治の世界」に入れとは、バカにするにもほどがある、ということだったのである。

いまでは信じられないだろうが、事実、である。

しかし日本でも、衣食足りた70年代になって、突如、「ウーマンリブ」なる運動がおきたらしく、学校から帰った小学生も観ていた、午後のワイドショーには、そのリーダーたる女性たちが憤懣やるせない激烈な言葉を述べて、その上の世代の割烹着がトレードマークだった「主婦連」を圧倒していたものだった。

わたしの祖母は、「なんだいこのひとは?旦那はどんな顔をしているんだろうね」と言っていた。

「若い時は親に従い、盛りにしては夫に従い、老いては子に従う」というのも、あたかも日本オリジナルのようにするためか、日本では、女子教育のなかでいわれてきたというが、実際は、中国の「礼記」に由来する三従の教えのことで、「漢学」の分野にあたる。

これをよく読むと、「女尊男卑」がにじみ出るから、日本でも女子教育に採用したのだろう。

平安貴族の女子なら、父からの直接的な手ほどきで、文芸を学び、結婚すれば家政を仕切りつつ、子に教育をほどこして、老いたらその子に従うのは、どのように育てたかの結果確認のことなのである。

つまり、ぜんぜん従属的な意味での「三従」ということではない。
これが、日本的解釈なのだ。

その典型が、秀吉が生涯頭の上がらなかった、北政所たる「おね」さんであり、山内一豊の妻、見性院なのであった。

世の人は、「内助の功」というけれど、実態は、完全なる「女尊男卑」であったといえる。

さて、それでは、現代における「むかしばなし」の創作は、なにを子供への説話・教訓や寓話としての意味を伝えるべきなのか?

「多様性」という言い方の建前のおかげで、基準を壊すひとたちが威張っているけど、あんがいと、「いきすぎた多様性」が人々のストレスを限界にまで高めて、超新星爆発のように、自己崩壊するのではないか?

これからの作話者は、量子論やら宇宙論を基礎とした、SF神話を書く時代になったようにおもえる。

すると、基礎構造に「竹取物語」のような、「おとぎ話」がないと、はなしにならないのではないか?

子供をワクワクさせるのは、えらく困難な時代になったことだけは、確かなようである。

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