外務大臣を皮切りに、ワクチン担当とかデジタル担当とかの無任所大臣を拝命しながら、自民党の広報本部長なる閑職に追いやられたというマスコミのデマに乗せられた情弱国民のなんと多かったことか。
しかし、本稿では特定の人物を指して論じたいわけではない。
いわゆる「西側世界」という、広く「自由社会」と定義されてきた地域における恣意的な政権とこれを支えるマスコミ各社の創り出す「デマ」による世論操作のことをいいたいのである。
こうした連中の常套句が、「エビデンス」とか、「ファクトチェック」で、それがまた「科学的」であるかそうでないかというフィルターをかけたがることにある。
おそらくこの原点に、ルネ・デカルトが存在する。
啓蒙時代を築いたのは、なにも「文系」のジャン=ジャック・ルソーを嚆矢とするのではなく、「理系」のデカルトの位置付けが決定的なその後の「科学万能主義」へと成長した始まりなのであった。
そうやって、科学が専門家の領域に特化してどんどん高度化したら、科学とエセ科学の境界が一般人には見分けがつかなくなった。
しかも、そのエセ科学に、スピリチャルな分野も加えられるという「政治的解釈」が行われ、いよいよ伝統主義との確執となったのである。
つまり、たとえば柳田國男の「民俗」にまつわる研究成果が、単に昔の日本人の原始性をいうだけの解釈にされる理由となったことでも見えてくる。
これはなにも日本だけのことではなく、たとえば北欧神話の「森の妖精」が、キリスト教によって森の中に追いやられたのと似ている。
ただ、キリスト教は布教の都合で、妖精を曖昧なままにしているだけである。
ときに、現代の日本人政治評論家の中でもずば抜けている、アメリカ在住40年の観察者、伊藤貫氏のプーチン評が興味深い。
過去300年で最高のロシア指導者という評価の意味は、哲学をマスターしたプーチン氏の稀有な教養に基づく政治の実践だというのだ。
それは、昨年クレムリンでのタッカー・カールソン氏との直接インタビューでも、彼が1時間にわたってロシアの歴史を太古から現代まで一気に語った姿は、まさに「歴史学教授」のそれであった。
そこで彼がいいたかったのは、ロシア人とは何者か?というプーチン氏なりの結論であったのだ。
ロシア人は、決して西洋人の価値観(自由主義や民主主義)をもっていない。
ゆえに、彼は、ロシア的な政治姿勢をもって現代ロシアを統治しているのだ。
だが、西側メディアとそれを金科玉条として再利用する、西側のグローバル全体主義者たる政治家は、こぞってプーチンを「独裁者」と決めつけて攻撃している。
これこそが、グローバル全体主義というひとつの到達点としての西洋的価値観からしたら、(プーチンの)ロシアを許せない、破壊の対象としての嫌悪感の源泉なのである。
ひらたくいえば、「ロシアらしさ」とか、「フランスらしさ」や「ドイツらしさ」も、グローバル全体主義からしたらあってはならないものだからである。
あるべきは、「地球市民」である。
さすれば、プーチンのロシア解釈を日本にあてはめると、まったく似た構造での西洋との違いが日本にあって、もちろんロシアとも違うが妙な親和性があるのは、ウラル山脈から東にある広大なシベリアや南の中央アジアがまさにアジア的だからであろう。
これを、プーチン氏は「ユーロ+ロシア=ユーラシア発想」と呼んでいる。
つまり、明治期を境にして、日本人の西洋化が限界点にきているのが「今」なのだとすると、日本が日本への回帰を始め出したことへの西洋発想(=グローバル全体主義)からの攻撃も「今」激しくなっているといえる。
それが、昨今の「デマ」の源流なのだとかんがえるのである。
なるほど「デマ太郎」の知的水準のことではなく、価値観が、完全に「日本的」から乖離していることの本質がここにあると思えば、さまざまな発言の意図に納得がいく。
その蔓延の裾野の広さ。
これが、「デマの系譜」なのである。