社会調査のウソについてこれまで何度か書いてきた。
「統計」を30年間も学校で教えなかった国(2017~2019年改訂学習指導要領で再開)なので、1987年でいったんやめていることがわかる。
つまり、現代日本人の中堅層世代は、なんと「統計」をしらない。
国力の衰退理由にはさまざまな説(理由)が挙げられているが、その中のひとつにこれすなわち「統計の無知」があることはまちがいなく、その責は文科省と中央教育審議会にある。
だが、もっと根幹的な問題に、教育を国家の独占状態にしていることが、もっとも重いとかんがえるべきなのである。
レーガン政権で経済顧問になった、ミルトン・フリードマン(1976年ノーベル経済学賞)の大ベストセラー『選択の自由』(1980年)には、その後レーガン政権が採用した「教育クーポン」のアイデアと解説も書いてあった。
これは、たとえ公立学校でも、生徒とその親に通う学校を自ら選択できるという制度のことで、わが国でもごく一部に採用されている方式だ。
ようは、ふつうならないはずの、公立学校間の「品質競争」をうながしたもので、ために「教育効果」についての情報提供も学校側に義務づけたのである。
ときのわが国、中曽根首相は、アメリカ人の教育水準の低さを批判して物議を醸したが、このクーポン制を採用した州では、見違えるような効果がでたのであったし、国家が公教育を独占しているわが国の凋落は、いまや救いようがない惨状なのである。
それゆえに、トランプ政権2.0がいう、連邦教育省の廃止=各州に任せる、というひとつの改善方法が実施されることは、わが国でもおおいに議論されるべき事例なのである。
もちろん、この制度導入には、強力な守旧派抵抗勢力としてGHQがわが国で設立した、日教組が反対しているし、保身を旨とする管理職とその管理職を監理する教育委員会も積極的ではないという現実がある。
だが、最低でも「公教育」は、自治体レベルに任せることがあっていいし、そのための国家からの補助はあってはならないことをトランプ政権2.0は主張しているのである。
もっといえば、「公教育」は必要なのか?という議論をすべきだとおもう。
それがまた、大学入学などの「受験(問題設問)の自由化」に直結して、各校の「教育理念」と、「教授陣」、そして「教育内容(シラバス)」の一般公開がもっと強くされていい。
いわゆる「いい学校」の基準を、偏差値から解放することが、もっとも重要なことになるのである。
さてそれで、「世論創作調査」とはなにか?といえば、クライアントからのカネを得て、そのクライアントに都合がいい「世論調査」の結果を「創作する」というビジネスをいう。
もちろん、この情報の受け手である一般社会に、「信じ込ませる」というサービスも付随するから、大がかりな仕掛けも同時に提供することになる。
よって、大金を投じることができる「大手企業だけ」が、クライアントになり得る、というビジネス・モデルであるし、自身の側も「力のある企業」でなければできない。
この「力」には、政治力もあるし、マスコミへの影響力という意味もある。
ところが、何事も「過ぎたるは及ばざるがごとし」であって、やり過ぎたら、世論誘導を担当するはずのマスコミが、まず社会からの信用をなくしてしまった。
今年のアメリカ大統領選挙の結果分析で、大勝した共和党支持者たちの圧倒的多数が、マスコミが発表する「支持率」やそれにまつわる候補者へのイメージ操作を信じておらず、反対に、大敗した民主党支持者たちの多数が、これらマスコミ報道を信じていることが判明したのである。
つまり、いわゆる「意識高い系」ほど、外部情報操作を信じる単純脳(むかしなら「単細胞」といった)であることがバレてしまった。
それで、マスコミ報道とは別の「X」に登録したら、さまざまな情報に触れることになって、マスコミからの呪縛が解けるひとと、自分で判断することが面倒くさいのでいよいよマスコミ情報に依存するひととに分化したのである。
ところが、「意識高い系」とは、他人の目を極端に気にする、いわば「日和った人物」のなれの果てなので、自分が単純脳だと他人にバレることを避けたいという、進化も何もないおなじ思考からの延長で、一気に「反・意識高い系」へと変貌している。
いまや、ニューヨークやカリフォルニア州でさえ、「民主党支持」をいうと、阿呆だとおもわれるかもしれないから、「隠れ民主党支持者」という、ついこないだまでの「隠れトランプ支持者」との逆転がおきている。
それもこれも、アメリカ人やらヨーロッパ人が基本的に学校で「統計」を習うことの影響(トレンドに敏感)なのである。
なので、上に書いた「トランプ現象」のようなことが、日本で起きないのは、やっぱり「自分のかんえではなくマスコミ報道に依存する」=「B層」の圧倒的多数(日本国民の約8割)が、まさに岩盤・鉄板化しているからだとかんがえることができる。
そして、その「B層」をターゲットに、今日も「世論創作調査=いかさま」が行われているのである。
しかして、「B層」はどのように形成されるのか?
わたしは、幼稚園・小学校からの「軍隊教育」だとかんがえている。
これは、明治政府がやった、分権的「藩」から「中央」への統一をテーマとした、同一化=兵卒化が、他人とのちがいを「いけないもの」として扱うことでの、「脱個性」が大成功している事実からの演繹である。
だから、「個性の重視」という意味なし用語が意味をなす。
「個性を無視」するための、ニュースピーク=二重基準用語こそがこれだ。
もう何年も前に、大手人材・広告企業からの依頼で、茨城県で実施の「就職セミナー講師」として講演したことがある。
このときの講師側から見えた光景こそが、「脱個性」のみごとなリクルート・スーツ群の異様さだった。
若い男女が、全く同じ服を着て、全く同じ姿で椅子に座っていながら、参加企業のブースで自己アピールするというイベントの意味不明が、じつに気持ち悪かったのである。
そうかと思えば、ホテルの採用面接に、金髪・ピアスどころか鼻に金属の輪を下げた人物まで複数やってきたことの「個性」とはなにか?
TPO(Time、 Place、Occasion)もわきまえないでやって来るのは、これはこれで世論操作の犠牲者なのであろう。
そんな今年は、元ジャニーズ事務所の大看板、「SMAP」のメンバーのひとりによるスキャンダルで暮れようとしている。
これは、上で指摘した、「世論創作調査」を長くやって来たテレビ局が、自らつくりだした視聴率の大低迷で起きた自身の影響力の減衰から、かつてなら漏れるはずのない情報が漏れだして「いかさま組織」だったことが世間に知れ渡ることによる現象だと理解できる。
しかして、問われるのはやっぱり「倫理」なのである。
このブログでは、2021年頭と2022年頭に挙げたのだが、永遠のテーマになりそうだ。
今日は「晦日」の30日で、明日から旧暦の「師走:12月1日」がはじまる。
さては、新暦では明後日になる、来年の年頭にはなにを書こうかと思案中なのである。