ロシアが隣国であることを、うっかり忘れた生活をおおくの日本人が送っている。
正月を前に、ロシア産の蟹やら魚卵やら鮭やらを、何気に眺めるだけになっている。
それもこれも、海があるためで、陸続きの大陸だとそうはいかない。
ところが却って「江戸末期」には、伊能忠敬とその弟子、間宮林蔵によって、一大測量がおこなわれ、「樺太:サハリン」が島であることを確認し、大陸との海峡が「間宮海峡」と名付けられたことは有名なはなしだ。
そもそも、幕府は、どうして北の「僻地」を調べたのか?といえば、英国船が蝦夷地の沿岸に現れていたことがあり、さらに時代が進むとロシアの南下に備えたからである。
このあたりの話は、漂流した大黒屋光太夫から高田屋嘉平衛などのエピソードがおもしろい。
海を越える交通手段が、「船」しかなかった、つまり航空機が発明されていない時代に、かくも江戸幕府は行動していたし、明治政府になると尚更だったのは、ヨーロッパにおける英国とロシアの対立がそのまま極東に持ち込まれたからでもある。
ここでのポイントは、明治政府=英国の傀儡、という視座だ。
そこで、大戦略として、対露を中心に、清国と朝鮮が巻きこまれることになるのは必然で、日本から近い李氏朝鮮との国交交渉が李氏側の「事大主義」でもつれたことも、日本側には厄介な問題となり、西郷隆盛の「征韓論」で、明治政府が二分することにもなった。
こうしたことについては、もっと英国側の資料から分析して、世論形成されてよいものだ。
そんなわけで、日清戦争のあとの「三国干渉」(ロシア、フランス、ドイツ)に折れて、国を挙げて「臥薪嘗胆」のスローガン=プロパガンダされたのは、対露を追及する英国にとってよほど都合がよいことだともっと日本人は認識していいからである。
それで、いまのウクライナのように、わが国がロシア(帝国)と戦うことになった。
なので、日露戦争は、日露だけで観るだけでなく、ヨーロッパにおける英露の確執という視点でどのように関係・連動するのか?が重要になる。
とはいえここで、日本人にとって「反露」の感情が固定化するのである。
それでもって、第一次大戦とロシア革命の混乱から、わが国も「シベリア出兵」する。
ウラジオストク(「東方征服」という意味で、じつは「満州」だった)に、3万人もの日本兵がざっと4年も駐屯したので、この地のロシア人の口に、「味噌・醤油」がふつうになって、現在に至っている。
なお、「跡地」として残っているのは、「本願寺」と「横浜正金銀行浦塩支店」が有名だ。
横浜正金銀行とは、国際決済を専門とした銀行で、後の「東京銀行」いまの「三菱UFJ銀行」のことで、日本にあった本店跡は文化財として「神奈川県立博物館」になっている。
日本人の「反露」が決定的になったのは、ソ連による「満州への突如の攻撃」による阿鼻叫喚と「シベリア抑留」、「北方領土問題」で、これが、平和条約未締結となっている。
つまり、国際法的に、わが国はロシアと戦争状態にあるし、ウクライナでのわが国の振る舞いで、改めてロシア側から「敵国認定」の宣言を公式に受けているから、じつはいまは歴史的にも「最悪」の状態にあるのだ。
しかし、敗戦後のわが国が、「日英同盟」なる英国の傀儡から、米国(とくに民主党)に征服されて、いまもそのままにあることで、ソ連崩壊後のエリツィン時代のロシアが米英の資本に食い荒らされて、男性の寿命が10年も「縮んだ」ことの悲惨を跳ね返したプーチン政権をどうみるのか?という問題に突き当たったのである。
ここに、ロシアを観る「評価基準のゆらぎ」が生じて、「親露」という発想がわいてくるのは、基本的にプーチン政権が「反共」であるためだ。
この「天地返し」と、元からの「反露」が交錯している。
加えて、容共状態になったアメリカ民主党政権が終わって、「反共」のトランプ政権が登場するという、米露がとうとう「反共」で一致する、巨大な「天地返し」になったので、「親露」が勢いを増す展開になっている。
こうしてみると、「反露」にも「親露」にも、共通して欠如した決定的な問題がみえてくる。
それが、「日本」という視座なのである。
猫が捕らえたネズミをいたぶるのが、アメリカからの一辺倒だったものが、なんと二匹目の猫が登場した。
いまさらながらに、江戸幕府の「まとも」が気になるのである。