老舗料理店の「味」が、変わったか変わらないかが議論になることで、それがそのまま「店の評価」になっていることがある。
結論から先に書けば、おおむね「店側は味を変えている」のに、「客側が変わらない」と信じていることでの「高評価」がある。
これは、ふだんの食生活の変化を感じとった店側が、ほんのわずかな対応をしているために、「客側」をいい意味で騙しているのである。
もっといえば、洋風の味に染まっている客の食生活に合わせる努力をしたら、「むかしから変わらない味」という勘違いを引き出して、それが知れ渡るとできる「ブランド効果」であるともいえる。
では、味は変えるべきものか?それとも変えているのに変わらないという評価に向かうべきであるか?どうなのだろう?という議論である。
神奈川県の相模原に、父と息子の親子で営む「街中華」がある。
父は、日本人が好む典型的な「広東(風)料理」の担当で、息子は、横浜中華街にて修行した、本格的「四川料理」の腕をもっている。
創業者の父の味こそ、これぞ「街中華」なのではあるが、そのレベルはそんじょそこらの店とはちがう、なるほどの料理なのである。
だから、横浜中華街にもあるあるの料理ともいえるし、庶民的なメニューとはいえひと工夫もひと手間もかけているのがうれしい。
一方で、息子の四川は、これもまったく手間を惜しまぬ仕込みをしているので、「麻」と「辣」とが、はっきりしている。
こんな「本格」が、街中華で手軽な値段で楽しめるのである。
つまるところ、広東料理と四川料理が、同じ店にあるのであって、かなり珍しいといえるだろう。
わが家からはかなり移動の手間がかかる場所ではあるが、意を決して向かうにふさわしい店なのである。
先日、一駅離れた隣町のホテルをとって、いよいよ堪能しに久しぶりに出かけたら、お父上の姿が見えない。
聞けば訳あって入院中という。
二人でやっていた店の料理を、ひとりでこなすため「出前」は中断しているとのことであった。
さてそこで、息子の広東料理をはじめて食べた。
なるほど、父とは味がちがうのである。
だが、まずい、というのではない。
まさに息子の味であって、奇しくも父の味との比較ができたのである。
なによりも、元気で退院されての復帰を願うが、とはいえ息子は覚悟をもって父の味を継いで欲しいとおもったのである。
なぜか?
メニューに、おなじ料理でも、父バージョンと息子バージョンを載せて欲しいとおもったからである。
これを機に、あくまでも前向きに、息子には父の味と自分の味の両刀使いをマスターしてほしいのである。
なんとわがままで贅沢なことか!
厨房に復帰した親父さんに伝えておきたい正直なリクエストなのである。
とはいえ、以上が本音ではあるけれど、ふと『マトリックス』を思い出した。
量子論によれば、いよいよ我々が見て感じている「現実」が、じつは「幻」であることのややこしさがある。
脳(量子コンピュータ)によってつくられている「マトリックス」の世界のほうが、本当の現実に近い。
まぁ、グダグダいわずに、親父さんの復帰を願うばかりなのである。