「和式」の復活

2026年がはじまったが、昨年から日本復活の吉兆がみえるようになってきた。

あらゆる点で、「和式」がトレンドになるにちがいない。

新年早々、話題としてトイレは除きたいおもいがあるけれど、トイレなくして生活はできないので、かならず「(ミニ)鏡餅」を置いて三が日は「トイレの参拝」からはじめている。
わたしの人生では20代のはじめまで、「和式便所」が一般的で、「洋式」の普及はまだまだの状態であった。

「伝統的な日本(文化)」というと、工芸品たる「モノ」に話題が集約される傾向がまだまだあるのも実態で、「無形の文化」についての評価が低いのが残念である。

それが、こないだ書いた「歩き方」が代表する。

しかし、よくよく観察すると、たとえば、サッカーのスーパースター、アルゼンチン代表のリオネル・メッシの歩き方が、「和式」なのである。
彼はどうやって修得したかしらないが、身体をコントロールするのに自然と「和式」になったとかしかおもえない。

かんたんにいうと、「かかとで着地しない」のが、和式のポイントなのである。
「足裏全体」あるいは、足指の手前の「丘」部分で着地して、つま先で蹴る動作ではなく、着地した足の反動で次の足を出す、という方式である。

なので、見た目は「すり足」になる。

これを、フリー狂言師の茂山千三郎氏は、人間国宝だった父の四世茂山千作が口にしていた「土踏まずで歩け」を、足裏全体で着地することを意味したのだと解釈しているという。
これは、道具としての草履、あるいは、下駄を履くと自然にそうなるようになっていると気づく。

鼻緒(さいきんでは「花緒」というらしい)でしか接触しない履物なので、かかとから着地すると脱げてしまうし、そもそもこれらの履物は足のかかとが2センチ程度はみ出すのが正しいサイズ感なので、かかとからの着地はありえないのである。

裸足になればなおさらに、人間はかかとからの着地はしない。

単純に、痛い、からであるし、長く続けると確実に足首や膝、股関節を痛めるばかりか、背骨までゆがんでしまう。
まったく、かかと着地は不健康なのである。

「洋靴」と「草履・下駄」の販売も、むかしから分離していて、「靴屋」と「履物屋」は別だった。
ここに、西洋を受け入れる文化と、そうでない文化の区分がみえるのである。

思想でいえば、西周と福沢諭吉の西洋と、もっと過激なジャン・ジャック・ルソーの社会契約論を翻訳して自由民権運動に多大なる影響をあたえながら、じつは批判的にみていた中江兆民とのちがいのように、である。

つまり、「靴屋」と「下駄屋」は別の店であったが、客は両方を用いていたろう。
だが店=業界では、それが大変なライバル関係にあって、大正期には拮抗し、昭和初期に靴屋の優位となる。

ところが、昭和8年に、科学が解明した「足の不具合原因」についての論文が新聞各紙に掲載されて、がぜん「下駄と草履」が売れ出したことがある。

当時すでに患者が続出していた「外反母趾と内反小趾」の原因が「洋靴」で、草履と下駄の愛用者はこれらにならない、という結論がウケたばかりか、改善と治療には草履と下駄が適切だとの指摘があったのである。

草履と下駄は、無意識に足の指が動いて、鼻緒をつまむ動きだけでなく、つま先表面をつかむ動きをすることで、土踏まずが形成される。
つまり、足に筋肉と筋(すじ)がつくばかりか、それで骨格が矯正されるのである。

とはいえ、いまや「履物」=「靴」であるから、西洋に席巻されたのは疑いようもない。

ドイツ式の靴が整形外科の知見からできているので愛用してきたが、まさか草履と下駄がかくなる効果を内蔵した逸品だったとはしらなかった。

それで登場するのが、「和式」の「歩き方」なのである。

『真田太平記』に登場する「草の者=忍者」たちは、一晩で数百キロを走破したとの記述が繰り返されて、あたかも作家の「眉唾」だとおもっていたが、そうではなく、まったくの現実だったのである。

日本人は「和式」の歩き方を失って、洋式の「ウォーキング」をすることで、かえって不健康になっている。

和式そのものにも異変はあった。

大正期、蕎麦屋が「機械」を導入したところ、「手打ちより機械打ちが断然うまい」との評判がたって、「手打ちの蕎麦屋」が古いとされた。

いまや、インバンド観光客が、「Soba(「Buckwheat」よりも通じる?)」にはまって、ラーメンか蕎麦かの好みがわかれる時代になっている。
自国に帰っても、ラーメンはなんとか食べることができても、蕎麦は日常的ではない。
乾麺はあっても「出汁」とともに「つゆ」が入手困難なのである。

ために、日本通は、蕎麦屋に夢中になる。

ところで、中央アジア、とくにウズベキスタン(首都はタシケント)やアゼルバイジャン(首都はバクー)では、空前の日本語学習ブームになっている。
アゼルバイジャンは、初代大統領が「日本のような国にしたい」と演説して火がついた。
ウズベキスタンは、仏教国でもある。

日本語が普及するとは、現代の西洋化した日本人にはかんがえにくいが、さにあらず。

言葉が思想・文化の基本だから、「和式」が普及するのも必然なのである。

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