「地方創生事業」とはなんだったのか?

中央集権国家がいう「地方創生」の「事業」なのだから、中央で決めた「よかれ」を、地方に押しつけることだとかんがえるのが妥当である、というのは、こうしたやり方を明治以来150年余りもやってきた上での教育効果である。

逆に、まだこうした方式を要求する向きがあるのは、学習効果がない、ということではなくて、なんらかの「うまみ」がまだあることを示しているとかんがえられる。

また、国や地方自治体が実施する施策を「事業」と呼ぶ「官庁文学」も、民間の立場からすれば変な用語法である。
そういえば、教育関係者は、学校運営を「経営」といっているのも、なんだかなぁ、なのである。

中央集権の威力は、簡単にいえば地方を蹂躙することの後ろめたさがないことで、その押し売りの背景にある「善意」こそが、かえって「悪意」となることすら気がつかぬ無神経ぶりにある。

これに、悲しいかな、あがなうはずの地方が逆におもねって、予算配分の「得」にあずかろうとする卑屈は、もはや乞食のそれと変わり映えがない。

むかしはテレビでも、「右や左の旦那様、どうかお恵みを」とやっていたいたし、家々をまわって心付けを求めるひとがいたもので、いちいち警察を呼ぶのではなくて、いくらかばりを渡したらなんの危害も加えずに引き下がっていったものだった。

もっといえば、縁日やお祭りの夜店屋台の一角に、「傷痍軍人」がアコーディオンやらを演奏して何かしらの報酬を得ていたのを随分とみたものである。

高度成長期になって、こうしたひとたちが行政の世話になるにつけ、一切見かけることがなくなったので、今の現役世代には「乞食」といっても通じないはずだ。
しかし、そこがまた「福祉国家」の世界共通の末路で、気がつけば国民の全員が乞食扱いされているのである。

それが、さいきんの自民党国会議員による、年金削減の当然、といった論の目線にある。
くれてやるカネがないから減らすのだ、をいう前に、ひとから取り上げたカネをムダに使いまくっての挙げ句なのだから、なにをかいわんや。

わたしは福祉国家に反対するが、だからといって「急ブレーキ」は事故の元である。

さて、地方創生とは、一体なんぞや?
その無駄遣いの典型である。

中央集権のいう「地方」とは、律令のむかしから、為政者にはどうでもいい地域なのである。
そこを「荘園」にして、口分田の共産主義を崩壊させたのは、貴族たちの私利私欲によるものだったけれども、その管理人たる武士に政権を奪われるともかんがえなかった。

対して、いまの中央は、地方がたてつくとは微塵もかんがえていない。
これには、成功事例があるから、平安貴族よりもたちが悪いのがいまなのである。

その成功事例とは、「文化庁」の京都移転である。
先に、「さいたま新都心」なる用語をつくって、ここへ国家の局レベルを移転させた。
これらがもといた霞が関の官庁街に「空き」ができたことはないので、単純に「肥大化」したのである。

そこで、「都落ち」させられたのが、職員たちである。

しかしながら、これとは逆の事例もできた。
たとえば、国立感染症研究所の研究施設があったのは、武蔵村山市の住宅街で、近所の学校から町内会には、感染源が漏れたときの「避難マニュアル」すらなかったが、都心への移転が決まっている。

この危険性を指摘した国会質問に、政府答弁は、「かならずしも安全を最優先にしていない」という、にわかに信じがたい耳を疑うものであった。
なんでも、「国際的に重要な感染源研究を日本(政府)がやる」と決めたことなので、外国からの訪問者の交通に便利なことが優先順位の最上位らしい。

これで、武蔵村山市は安全になったかと言えるのか?もよくわからないのは、市(役所)への補助金が絶えることに抵抗があるからかもしれないからなのである。

ちなみに、文化庁という役所の権力は、「著作権保護」という大義を基盤にしている。
わが国では、いったん著作権協会から請求されたら最後、裁判となっても勝訴できないので、そもそも弁護士がついてくれないのである。

だから、文化財がおおい京都に移転することの合理性は、はなからない。

しかも、受け入れる京都市(おそらく「府」も)は、当時、「地方創生事業の一環」という移転理由を、「地域」創生に用語を変えさせている。
京都は地方ではない、というものすごい主張だったと、井上章一『京都まみれ』にある。

この意味でいうと、「幕藩体制」は、地方創生の手本なのである。

「米」を収入の大前提とした「石高制」は、幕府も各藩政も苦しめたが、権威主義の大義名分でがんじがらめの幕府に対して、「藩政の改革」では地元特産物の生産と販売でなんとかしのいだ。

いまもこのおかげで、特産物は生きている。

逆に、代官が治めた「天領」には、権威だけが残滓を放っている特徴がある。
わたしは、京都から電車で10分の「大津」駅前とその次の「膳所(ぜぜ)」駅前のちがいをみるにつけ納得するのである。

大津は天領で、膳所は本多氏の「膳所藩」の城下町である。
だが、京の洛内人が洛外を下にみるように、大津人は膳所人を下にみているようである。
われわれは天領だった、と。

しかして、これが開港による新興都市の横浜となると逆転して、市内で唯一の藩だった金沢区人は、「武蔵金沢藩」の末裔を自慢して、100軒あまりの寒村だった横浜村へその後にやってきた「どこの馬の骨ともしらぬひとたちを下にみているのである。

そんなわけで、そこに住むひとたちの心理を無視した、「創生」という言い方自体が、中央人の傲慢さのあらわれだから、じつは成功事例がないということになっている。

あたかも経済学が、「経済人」というありもしない人間を相手にして、無機質化すればするほど「唯物論」を基盤に置く共産主義に近づくようにである。


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