「寝具」をどうするのか?

堰を切ったように宿泊料金が値上がりしているから、おいそれと国内旅行もままならなくなってきた。

大手旅行会社による調査によると、この正月休暇における旅行をかんがえているひとと、そうでないひととが二分している、という。
もちろん、この「調査」の信憑性に関しては、ここでは議論しない。

日本における「農業放棄促進」をやっている、与党の恐るべき政策によって、「コメ」ばかりか、「野菜」の値上がりがはげしく、スーパーではキャベツの前でため息をついて購入をあきらめるひとの姿が、ひとつの風物詩を醸し出している。

師走になって、これからの「正月用品」をかんがえると、悪寒が走るのは、もう条件反射にさせられている。

貧しくなった日本人のおおくは、気軽に旅行にいくような生活状況にない。

原材料を輸入して、これを加工し、輸出して外貨を稼ぎ、その外貨の一部が再び原材料の輸入にあてて、残りの稼ぎを「アメリカ国債」として貯蓄していたら、世界一の債権者になっていた。

だがむしろ、これはアメリカの借金を肩代わりさせられてきた、という意味だとわかってきた。
永遠に返済のない、じつは「永久国債」にひとしいからである。

もちろん、そうやって購入させられたアメリカ国債を管理しているのも日本国政府なのであるが、これを取り崩して国民の生産原資に当てることもできないで、ひたすらに「増税」しているのは、「ばか」だからではなくて、国民を貧困化させて最大限の政府依存を達成しようという、共産主義革命をねらっているからである。

だから、一泊二食付きのパターンが壊れたのは、「素泊まり」のメリットが泊まり客にとっておおきいからである。
なにも、お仕着せの料理を食べずとも、どこでも食べることができる「街づくり」が行われてきたのだ。

この意味で先進的だったのは、千年の都たる京都で、この街の旅館は基本的に「仕出し」であった。
自家で料理をするのではなく、近所の仕出し屋から運んでもらう。

「Uber」が、「出前」サービスをお店から切り離したのは、どういう文化的な意味があるのか?を考えると、あんがいと「破壊的」な側面をみると、「便利さの向こう側」にあるものがボンヤリとでもみえてくる。

江戸がまだ登場しない、安土桃山時代の賑わいをイメージすると、外食がしたいなら、客は好きな店にいけばいい、という割り切りは、やっぱり都会だからの合理性にあふれていた。
ただし、都たる京都は、応仁の乱の焼け跡だらけの街だった。

そうなると、便利な立地にあるだけなのか?不便なら不便なりにどうやって料金をよりおおくとれるものか?と思案するのは、「いけず」の京都人ならふつうにおもうことであったろう。

この発想は、じっさいに「スイス人」と似ている。
合理的思考が強すぎることで、ヨーロッパの嫌われ者になって久しいスイス人は、「儲けること」についても、クールなのである。

そうなると、公家とその頂点にあった朝廷のトップ、天皇家にあやかる製品が一般化(コモディティ化)するのは時間の問題である。
その材料が、「絹」になって、それがまた「真綿の布団」を生んだのだろう。

ときに、布団の良し悪しがすぐにわかるのは、「敷蒲団」である。

ベッドであろうがおなじで、スプリングがへたったベッドなら、一晩で腰を痛める「効果」がある。
ならばいっそのこと「せんべい布団」のほうがまだマシなことがあるが、この場合の組合せだとたいがい「枕」があわずに首筋を痛めるか肩こりにべきなのになる。

とにかく、古代から中世までの、雨露がしのげるだけでよい、というなら別だが、それなりの金銭負担をもって泊まるなら、寝具の中でも「枕」と「敷蒲団」について、どんな品質ならリピートしてもらえるものか?を研究すべきなのに、これをやる宿が皆無なのであった。

はたして富裕層は、どんな寝具で一日の3分の1の時間をすごしているのか?

「高単価」をいうなら、「神は細部に宿る」ことまでの気配りが重要だと、だれもが口にはするけれど、寝具の「高単価」に腰が引ける、というのは、受け入れる客数分の用意がひつようだからである。

わが国に、世界的な「富裕層(おおむね年収が30億円以上)」が来なくなったのは、寝具があわない、ことも原因のひとつではないか?と疑うのは、いちど「最高級」に慣れてしまうと、それ以外はかんがえられなくなるからだ。

だが、資金のない、この国の宿は、かんがえたくないことになっている。

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