「専門学校」が熱い

なんのために学校へ通って勉強するのか?の答は、自立して一生食べるため、が基本である。

明治政府が導入した、近代学校制度は、江戸時代にはなかったもので、江戸幕府は国家としての教育制度も持ってはいなかった。
幕閣のための「学問所」はあったし、各藩の「藩校」もあったが、一般人は寺子屋や私塾で、すきなように学んでいた。

しかし、近代科学からでた技術や技能を得て食べるためには、寺子屋だけではまにあわなくなったのである。

少子化と大学を増やす文科省の政策がミスマッチして、とうとう「大学全入時代」となったのだが、大学を継続維持するためには絶対に補助金がいることも政策的にやって、国家が教育の独占をすることとなった。

これになぜか、公正取引委員会は警告すらださないでいる。
政府部内の問題は、政府部内では問題にしないというだけのことではあろうが、食えない国民を増やすなら、それは独禁法を越えた犯罪行為である。

いま、世界からわが国は、「低学歴国」だとの評価も受けている。

世界の先端を走るには、「院卒:修士や博士の学位」が必須なので、「学部卒」のいわゆる「学士」では世界から相手にされない学歴だ、という世界標準からのはなしがある。

この良し悪しは別にして、食べるためになにを学ぶのか?は、きわめて単純かつ重要な問題なのである。
高度成長期であれば、大学卒の学歴は役に立ったかもしれないし、いまだにそれが社内における評価基準にある会社もある。

ただし、そんな古い制度を遵守している民間企業なら、はなから就職しない方がいいかもしれない。
淘汰の対象になりやすいからである。

そうやってかんがえると、「専門学校」が熱いのである。

「職業訓練校」という位置づけがながくなされてきて、大学(教師)からは蔑視されてきた歴史があるけど、その大学が職業訓練校に近づいていて、専門学校があんがいと抽象的なかんがえ方を教えている。

それは、職業上、抽象的な発想法をしらないといけない、という現場の要請によるからである。
世界性先端の現場では、抽象的な思考ができないとA.I.にとってかわられる危険があるからだ。

一方で、あたかもA.I.をバカにする傾向かあるのが、文系の学者たちで、自分がAIに劣っているとは微塵もかんがえてはいない。
しかし、会計士や税理士、弁護士までもがAIによる職業上の危機に面しているのである。

こうしてみると、高度な手仕事を要する職人の不足が、いまの若者には大チャンスではあるまいか?

そんなふうにかんがえる親世代がいないことも、さらなるチャンスを広げている。

ときに、専門学校は本人も率先して学びたい、というひとが多数なので、なんとなく入学した者も喚起されるという。
これぞ本来の「学び」なのだ。

10歳の男の子の味覚が最も鋭敏だというのとおなじで、このころの子供指先の感覚も、成功度に敏感なのである。
なので、専門学校でも遅すぎる、という名工の発言はうそではない。

いまさらながら、若年労働を推奨することはできないけれど、手先の訓練という意味で、逃したら大損になるのが10代前半でのものの触り方なのだ。

もっとも、子供を預かってこんなことを教えてくれる職人も、近所から消え果ててしまった。
小学校5先生で進学塾に行くのではなくて、専門学校で手作業を覚えさせる方が、よほど食える人間になるのではないのか?とかんがえた。

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