民主国家の国民必読書といえば、『1984年』がまっ先に挙げられる。
この恐怖小説は、全体主義の恐怖を描いたもので、残念ながら救いようがない世界となっている。
もちろん、作者のジョージ・オーウェルは英国人だから、「英国の未来」をイメージしながら書いたにちがいない。
わたしは、彼の発想の根底に、おなじ英国人のケインズが、いわゆる「ケインズ経済学」をもって、「ケインズ革命」とまで世間にいわしめたことの恐怖があったのではないか?と邪推している。
ケインズ経済学=社会主義、と真っ向から批判したのは、ハイエクだった。
有名な、ケインズとハイエクの論争は、あたかもケインズが勝利した、と喧伝されているが、はたしてほんとうか?
じっさい、ケインズに「ケインズ理論の政策における実践には、不景気下の経済に限る」との条件付けをいわしめたところでのハイエクの撤退は、「もういいでしょう」というハイエク的な論敵への配慮だと読めるのである。
こういう「寸止め」ができず、徹底的にぐうの音も出ないほど論破する態度が流行っていて、そこまでやらないと勝者がわからないのは、観客の眼力も落ちたということだ。
まさに、空手でいう名人技と、本当に相手の鼻骨やらを粉砕する暴力との次元のちがいであるが、現代人はおよそ暴力的になったのである。
さてハイエクが引いたのにケインズの敗北を意味するのは、いかなる政府も、「ケインズ政策を不景気下だけ採用すべきといったって、限定的運用なんてしっこない」ことを、ケインズ自身も熟知していたはずだからである。
なにせ、ケインズはもともと英国大蔵省の官僚だった。
つまるところ、どんな経済状況下でも(不景気でも好景気でも)、温度差こそ意図的に調整はしても、とにかくケインズ政策が実施され続ける。
その、「なんとかのひとつ覚え」で一切の政策変更をしない典型が、日本政府と日銀なのである。
こうして、その国家なり社会は、確実に社会主義(=全体主義体制)へと邁進し、国民から観たらそれが、ハイエクのいう『隷属への道』になる。
社会主義を肯定するはずのないアメリカで、なぜに社会主義が蔓延したのか?は、「本国」の英国が先行したとおり、社会正義の政策を政府がとり続け、国民が慣らされてしまったことにある。
しかし、その社会正義とは、考えぬかれた「革命思想」からの選択だったから、これを総じて「計画的=むかしなら「計画経済」と非難された」というのである。
いったん慣れされてしまったひとたちに、これらをやめる、ということは、そのまま「恐怖」になるのである。
そして、人間は自身への不利(補助金カットとか)を回避しようとする。
これがまた、政治運動として煽られれば、ひとびとの正義心に火がついて、おおいに利用されてしまうのである。
それが、100年前にドイツで起きたことであり、現代のアメリカや日本で起きている。
たとえば、自民党総裁選に立候補して、大手マスコミがイチオシしている、小泉進次郎(すんずろう・レジぶくろう)が、突如、年金は80歳から、といいだして話題にするがごとくである。
アメリカには、「ワードサラダ(意味不明)」の名手、カマラ・ハリスがやっとのことで10日、トランプ氏との討論会を乗り切ったが、まったく「すんずろう構文」なる用語でおなじタイプが日本に出現したのは偶然ではない。
乱れきった生活がある、アメリカ人には中絶の禁止が、一方で、とにかく個体の生命だけを伸ばしたい日本人には、流行病予防のはずの注射が、感染の恐怖を前提とした社会正義から強制されるのである。
乱れきった生活をやめるように道徳教育や性犯罪に対処することと、病原体からの免疫力をあげるための方策の両方ともが、目に見える結果(たとえば臨まない妊娠)だけを繕うための方策だけに議論が集中するのも、そういった「そもそも論」が、利権のカネにならないためである。
そうやって、多数の恐怖がある一定の思想や行動としてまとまると、味をしめた政府は、どんな理由であれ、なんでも強制をして、国民を圧する。
これが「圧政」の正体で、従わない者は個体としての恐怖(暴力)を味わうことになる。
つまり、恐怖が恐怖を呼ぶのであるが、ぜんぜんレベルのちがう恐怖となるのだ。
世界の大富豪たちがなぜに社会主義=全体主義体制を支持して、資金提供に奔走するのか?といえば、彼らの未来永劫・子々孫々・末代まで、支配する側に居座りたい欲望を、カネで買うことができるようになったからである。
そのためのロボット人形が、カマラ・ハリスであって、自民党総裁なのである。