明日3日が、いよいよ2025年参議院通常選挙の公示日である。
一院制か?二院制か?という議論について、このブログではずいぶん前に「二院制を確保せよ」というタイトルで書いた。
衆議院(「下院」や「庶民院」ともいう)のチェック機構として、参議院(「上院」や「貴族院」ともいう)があるのは、「効率」ではなくて、決議の「確実性」を担保するためである。
英国やその仲間のカナダなどは、「貴族院」に選挙がなく、わが国においても敗戦まではそうだったのは、「貴族=伝統派の代表」としての社会的立場(ノーブレスオブリージュ)を担保としての「信頼」に基づくことができたからだった。
「八月革命説」をいいだして、いまにつづく戦後の立ち位置をつくったのは、GHQに媚びを売りまくった東大法学部教授、宮澤俊義であったが、GHQは「参議」の院を国会に残した。
ちなみに、「参議」とは、「大宝律令」とのからみで731年に生まれたので、ざっと1300年ほどの歴史がある。
明治の王政復古では、参議は閣僚より上位だった。
だが、「参議」とは、「議論」の場に参加はするが、意見を述べることはないひとをいうようになる。
それで参議にも正規の官職を与えよ、と正論を主張して嫌われ左遷されたのが菅原道真だったのである。
そんなこんなを経て、GHQは衆議院のコピーとしての参議院を置いたのだが、アメリカの「連邦上院」とは別の歴史的経緯があるために、「良識の府」としての緩い立ち位置を、選挙制度でも担保しようとしたのが、いまの「参議院」なのである。
アメリカは2年に一回三分の一が改選され6年で一巡するけれど、わが国は手抜きして、3年に一回半分が改選されて、6年で一巡する。
むかしあった「全国区」が、カネがかかるとして、「全国比例」となっても、衆議院での悪名高い「比例復活」はない、あんがいと厳しいルールになっている。
そのかわり、新規政党やらの登竜門としての機能となったのは、せめてもの良識というものだ。
「サラリーマン新党」(1983年~2010年)とか、「日本新党」(1992年~94年に解散「新進党」へ:1993年には「細川護熙内閣発足」)、とかという「新党ブーム」があったのは、参議院の「全国比例」のおかげで、これを橋頭堡として衆議院に議席を得るのが常套手段になったからである。
これまでは、衆議院の優位性が強固なために、参議院の「どうでもよさ」が目立ったので、どうでもいいタレント候補も当選するようなことが「話題性」としてあるような体たらくにもなっていた。
しかし、今年の会期末にひとつの象徴的なドラマがあった。
それが、「ガソリン減税」法案の衆議院可決(一応野党が多数)の際に、国会内与党のはずの立憲民主党が裏切って、常任委員長の解任決議を通してもやったのに、なんと参議院では、最悪でも次期国会への「継続審議」になるはずが、「休憩」をもってそのまま会期を終えて、みごと「廃案」となったことである。
法案を通したい野党としては、参議院の「否決」をもって、衆議院での再審議となれば、「いける」と踏んでいたことの、与党による「無血クーデター」が成立したのだった。
これによって、7月1日からのガソリン税25円/Lがゼロになる目論見が、露と消えたのだった。
とにかく、衆議院が「少数与党」で、参議院が「多数与党」という、「逆ねじれ」のために、もしも与党が参議院でも「少数与党」に転落すれば、自動的に政権の維持は困難となる。
ために、現与党と野党第一党たる立憲民主党との「大連立」が、水面下で画策されているという。
しかし、選挙の際に、当事者たる政党がこれをいわないならば、「だまし討ち」に匹敵するし、前提にある立憲民主党の参議院議席数すらも足りなくなるような結果となれば、この大連立構想もすっ飛ぶのである。
つまり、お膳立てとして、歴史的にも、2025年参議院通常選挙、は、過去にみない「政権選択選挙」となっているのである。
そんな緊張感があるなか、29日、共同通信が世論調査結果として、自民、立憲、参政、国民、という順の「支持率」を発表した。
なんと、新興政党の参政党が、3位に浮上するのも「異常事態」なのである。
なんとなれば、この春には1%にも満たなかったからで、あきらかに支持率が「膨張」している。
「拡大」ではなく「膨張」がふさわしい。
これを「線形代数」のようにとらえると、選挙期間中(7月19日まで)に、どうなるか?は、おおげさではなく「革命的」になる可能性がある。
わが国は、国会が「内閣立法」という、行政府による侵略をうけて事実上陥落している。
制度としての「議員立法」はあるが、「議員立法しかない」アメリカのような状態ではまったくないのである。
それが、立法府の議員なのに、1人では「法案」を提出することすらできないことである。
参議院では10人以上、衆議院では20人以上が必要なだけでなく、「予算案」になると、参議院で20人以上、衆議院で50人以上という「人数制限」があるのである。
これ自体、憲法違反の疑いをもつが、こんな「数」の制限があるために、どんなに無能でも、有名人を当選させることが有利になるという、制度の悪用を誘発するのであろう。
金権政治の原点なのか?金権政治の結果なのか?は横にしても、衆議院での参政多数がなければならぬものの、「発議すること」にも意義はある。
なるほど、この夏、熱い選挙になる理由がこれなのである。