「東大話法」の事例解説

ITビジネスアナリストという肩書きで活動している、深田萌絵(本名:浅田麻衣子)氏が、神谷宗幣参議院議員(参政党代表)提出の「質問趣意書」について、絶賛している動画がある。

ここで、「東大話法」が登場する。

このブログでは、「官庁文学」について書いたので、「東大話法」とは官庁文学のなかにある流派のことともいえるが、その特徴は、「難しいことをとにかく難しくする」ことで、聴き手や読者を煙に巻くという「話芸」のことである。

ちなみに、国会議員(衆議院議員、参議院議員は問わない)であっても、なかなか(与党にいても)議員単独だったり、少数野党だったりする場合に直接政府(行政府)へ質問するチャンス(形式的には「議長」を通じて)が時間の制約上与えられないため、「質問趣意書」という文書をもって質問し、政府は「閣議決定」の手続を経て(形式的には再び「議長」を通じて)「回答」する仕組みがある。

なので、「質問趣意書」の提出本数は、一種の議員活動のバロメーターなのだ。

それで、マスコミが持ち上げる要職にある有名議員なのに、質問趣意書を一本も提出したことがない、という、驚くべき「実績」がある議員も存在する。
もちろん、提出本数よりも中身が重要なのであるが、せめて現職や元職の場合、機械的にでも「選挙公報」には、在任中の提出本数ぐらいは記載があっていい。

ところで、一般に「官僚」といえば、「国家総合職(昔なら「上級職」)試験」に合格した、いってみれば「科挙」に通った高級官僚のことを指し、それ以下の「官吏」とは身分的にも区別するのがふつうになっている。

これを、マックス・ヴェーバーは、家産官僚と依法官僚とにわけた

明治以来、わが国の官僚は、あたかも「依法官僚」の体をなしているが、実態は天皇に尽くすふりをしながら国家を食い尽くすシロアリ的な「家産官僚」なのである。

それが、戦後、GHQによって完全なる「寄生体」に変態したのである。

戦後もしばらくは、民間でも正社員のことを「吏員」といって、非正規の「雇員」とわけて呼んでいた。
それが、より民主化されて、「職員」と呼び方は統合されたが、身分差はそのまま潜行・埋没してより陰湿な先鋭化していまにいたっている。

まともな民間企業に勤務していても、社内文書=決裁書の書き方をしらないで管理職になってしまうこともままあるが、ふつうはかなり厳しく若いときから訓練を受ける。
そこで、社風があらわになって、たとえばB4版一枚でまとまっていないと形式上でも受け付けないという企業もあれば、何枚にもわたる作文をよしとする企業もある。

そもそも、どんな書類でも「読み手」が存在することを、「書き手」が意識しないということはありえない。

決裁書なら、決裁権者が絶対的な読み手である。

ために、決裁権者が決裁判断できる情報提供が簡潔になされないといけないし、一日あたり何本の決裁を決裁権者がするのか?から逆算したら、大量の文書を読み込むことの苦痛はやってみないとわからない、ですむようなはなしではない。
もちろん、将来、どんな経緯で決裁したのかをたどれることも重要なのである。

これが「官庁文学」だと、読み手は「国民」になる当然がある。

国会議員も国民の代表だから、国民に含まれる。
自己矛盾するが、官僚も国民なのであるけれども、かれらは自分が国民であることを意識しないという、特別感にあふれていることを気にとめないかなり異常な訓練を受けるのである。

これは、国家に寄生する、ということと同義なのであるけれど、自分らが寄生する感覚よりも国家を支配する感覚が上なので、国家そのものを私物化してもそこにはとっくに悪意すらないのである。

よって、「東大話法」なるものが誕生し、年輪のように歴代がコピー(形式化)強化するのだろう。

わたしはいまさかんにいわれている、「財務省解体」にくみしない。

むしろ、そんなふわーっとしたことではなくて、しっかり、財務省から国家予算の編成権を国会に移管すべきとかんがえる。
それから、国税庁の独立=歳入庁の新設&移管である。

つまり、財務省は、執行が決まった予算の支払いと詳細な記録を残し決算に耐えられること、加えて国有財産の管理に特化した役所であればいいのである。
これに、経産省も、実質解体して、産業界に余計なお世話をさせないことが、(日本)国民経済のためになる。

そうやっていちいちあげると、なんと現状の日本政府の省庁のほとんどが不要なのである。

むかし、全国の国立大学をぜんぶ「東大」に改称せよという論があった。
興味深いが、大学とはなんぞ?という議論をせずに将来像をかたるのは、かえって浅はかなことなのである。

東大話法がなくならないのは、それが必要な構造があるからである。

自・公政権は、内閣人事局をもって各省庁事務次官が握っていた官僚人事を政権に移管し、「寄生体」からさらなる変態をさせて、党組織が事実上支配するソ連・中国「共産党」とおなじ方法を確立した。

それが、最高裁判所事務総局にも波及したのである。

ようは、国家・政府という組織体の運営方式が、制度疲労に陥っているのである。
どうするのか?をかんがえるのは、国民=政治家の役目となっている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください