観てきたようなウソをつくのは、「講釈師=講談師」だと決まっていたが、いまは講談師が絶えて「マスコミ報道」になった。
「話芸」という分野でもわが国は独特で、「落語」と「講談」、それに「浪花節=浪曲」、「漫才」と豊富なジャンルがあることも他に類をみない。
そのはるか前にあった、街頭での琵琶法師による「平家物語」も、一種の話芸といえよう。
映像による再現ができないので、「言葉」による表現が発達し、「芸」の領域にまでなったのである。
そして、ラジオと結合し、ラジオと新聞の「マスコミ報道」というジャンルが、いまのような状態になったのである。
もちろん、映像をあつかう「活動写真=映画」でも、「活弁士=活動弁士」という話芸があった。
それが「トーキー」になって、「プロパガンダ映画=映画ニュース」が、ついこないだまで上映されていた。
人の一生が長くともせいぜい100年ほどという、短さ、だけど、たかが60年ほどしか生きていないわたしごときすら、むかしといまの変化には、ただ驚くばかりなのである。
永遠の命を得るための、「不老不死のクスリ」を求めたという、たとえば古代エジプト王朝最後の女王、クレオパトラ7世の話や、始皇帝がおなじクスリを求め徐福に命じてどうやら日本にまでやってきた話などを、「馬鹿話」だと思っていたが、「終わりのある」ことの意味がだんだん理解できてくると、より一層の浅さを感じる昨今である。
たとえば、親子二代、半世紀続いたシリアでは、アサド息子政権が崩壊したし、韓国ではよくわからないことが起きている。
二代目アサドの不幸は、後継者として帝王教育を受けたはずの兄が早逝し、突如にして眼科医だった自分に御鉢が回ってきたからで、国民はもっと不幸になった。
イスラエル建国後のレバノンの混乱とおなじく、シリアも大混乱になったのは、国内政治の失敗だけでなく、外国からの影響(イスラエル・アメリカ・英国・EU)を防ぐために別の外国(ロシア・イラン)に依存したことで、独立を失うことになったのである。
あたかも、イラン映画の傑作『独裁者と小さな孫』(2015年)を彷彿とさせたし、ノートルダム再開で訪問したパリから発信した、トランプ氏の「X」でのひと言のつぶやき、「アメリカはシリアに興味がない」で、ロシアとイランが見棄てたのである。
ウクライナ代理戦争パターンを見てとった、ということだろう。
その手(誘い込み)にはのらないぞ、と。
なんだか、自分は華やかなパーティーの席にあって、ことごとく敵対者を始末する、『ゴッドファーザー』のような展開に唖然とするが、血なまぐさい話をやめさせてこれ以上の無益な犠牲者を出さないとしたことには一種の安堵さえある。
ただし、アサド政権が崩壊したからといって、シリアの混乱が収まるのか?はわからない。
こうした状況に、現代の「大魔女」フォン・デア・ライエンは、早速、「歓迎」の意思表示をするほどの浅はかさを自分から世界に発信する「低能ぶり」をみせた。
大量のシリア難民をどうするのか?にまったく興味がないのである。
ヨーロッパの統一は、もはやムリだと、ヨーロッパ人でもおおくが気づいたことだろう。
むかしは「激動の70年代」とかといっていたものだが、いまはそんなレベルではない「液状化」がおきていて、どこでどう「倒れるか」さえも人知をこえている。
地中海に面するシリアの港を喪失したロシア(海軍)は、アフリカにおける影響力を縮小するだろうけど、一方で、ウクライナを終わらせることを、米露そろって優先させたという見方が強い。
さては、「永遠の平和」を信じる日本では、これら「液状化」の数々を見せつけられても、相変わらずの「永遠なるもの」に動じない鈍感さが、恐ろしいほどに危険だとおもうが、まったく意に介さずにいられるのはどういう根拠か?を問うと、「なにも考えていない」しか答が見つからない。
民主党トルーマン政権の国務長官だった、アチソンが宣言して定めた、「アチソン・ライン」について、トランプ氏は言及していないのだ。
このラインは、フィリピンからアリューシャン列島まで引かれたものだが、台湾と朝鮮半島は、「外側」にあって、沖縄と日本列島は「内側」になっている。
しかして、韓国のゆらぐ現政権はウクライナへの武器供与を拒否する決断をしたが、台湾とわが国は、強力な支援を行っている。
この「踏み絵」から、トランプ政権2.0は、台湾とわが国を「敵対的」とみているにちがいない。
アメリカ民主党による、トランプ政権2.0への修復不能な嫌がらせのなかに、韓国情勢があるとかんがえれば左派が勢いづく現状と辻褄があうし、台湾の現政権とわが国の政権は、とっくにアメリカ民主党の子会社になっている。
すると、ウクライナ後、トランプ政権2.0から強烈なパンチがやってくること、確実なのである。
それが、わが国の「永遠なるもの」の破壊に相違ない。