日本では、「ふてほど」(ことしTBSで放送されたドラマ『不適切にもほどがある!』の略)が、2024年の年間『流行語大賞』になった。
一方、左傾化した保守党政権から、極左の労働党に政権交代して、生活がメチャクチャになった英国では、いま、総選挙を求める署名が大量に集まっているというなかで、『オックスフォード辞典』を出しているオックスフォード大学出版の流行語調査で、「ブレインロット:Brain rot:脳腐れ」が選ばれたことが話題になっている。
テレビを観ないわたしは、奨められてドラマの方は『TVer』で何本か観たけれど、全部は観ていない。
それに、わたしの周辺で「ふてほど」という言葉をつかうひとがいないので、『流行語大賞』というニュースをみても、妙な違和感しかないのである。
いわゆるむかしからの「(世帯)視聴率」でいえば、この作品の平均は、7.6%で、最終回は、9.6%であった。
むかしの「オバケ番組」の数々をしっているわたしにいわせれば、「?=超ショボい」のである。
つまるところ、かくほどにテレビ離れがすすんでいるということで、ハッキリと「ご同慶」に値するのは、観ないことへの賛意である。
しかし、テレビを観ていた娯楽時間数はどこに向かったのか?と問えば、どうやら、ゲームやらの「ネット上の消費コンテンツ」らしい。
これは、電車の中で本を読む人をめっきり見なくなったのと、スマホを見ている大多数のひとが観ている動画やらSNSでのメッセージの交換になったことでも納得できる。
そこで、オックスフォードの調査でいう「脳腐れ」に行き着くので、本件では英国人に一本とられた感がある。
しかし、「脳腐れ」が果たして自然現象なのか?と問えば、確実に企図されたものであろう。
「人生」という有限の時間内で、何をするか?は、もちろん個人の自由であるが、その個人が集まって、「大衆」を形成しながら、一方で、「エリート」集団が形成される。
これは、まさに分離タイプの「ドレッシング」のようなのだ。
そこで、「エリート」は、自らを隠すか、あるいはそのために「震える」ことで、混然とさせれば、見事に「大衆」のなかに身を隠すことができ、かつ、本質的に絶対に自ら大衆になることもない。
『不適切にもほどがある!』を、「ふてほど」として選んだ選考委員のはなしによれば、令和の時代の様々な不適切(たとえば、自動車会社の検査不正とか)が、戦後の昭和というフィルターを通した「アイロニー:一応「皮肉」とする」だというのも、なんだか「アイロニー」なのである。
ところで、「脳腐れ」という概念は、アメリカ文学の傑作、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの『ウォールデン 森の生活』を嚆矢とするというから、日➡︎英➡︎米という順での論理展開になっていることに注目したい。
なんと、いちばん「軽く浮いている」のが日本、つぎが英国で、土台がアメリカという、英・米における逆転もある。
これは一体どういうことか?
日本に関していえば、やはり「歴史感覚」が狂ったことによるのだろう。
「昭和」への回帰といっても、その「昭和」とは、圧倒的に「高度成長期からバブルまで」のことで、「戦前」と「終戦直後≒占領期」のことはいつも無視しているからである。
わたしが、『不適切にもほどがある!』と似ているとおもったのに、『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』(2007年)がある。
この意味で、映画やドラマあるいは小説は、そこに描いた時代背景(映像や文字に固定される)こそ「タイムマシン」なのである。
だから、戦前もそうだが、終戦直後の映画(「ニュース映画」も含む)や小説には、タイムマシンとしての価値がある。
いまの「ふてほど」を選考した委員も忘れた世界が、しっかり描き込められているからだ。
すると、『ウォールデン 森の生活』も、いまようでいう「自然派」とか、「アウトドア-愛好家のバイブル」という軽い感覚で書かれたものではないことがわかる。
まさに、こうした「軽さ」の理由こそが、「脳腐れ」なのである。
それに『ウォールデン 森の生活』が発刊された、1854年とはどんな年だったかも、あんがい重要で、日本ではペリーが再来し、欧州ではクリミア戦争が起きている。
アメリカでは、共和党が結成されたが、内戦(日本では「南北戦争」という)はまだはじまっていない。
それでも、日・英の流行語から見えてくるのは、現代が「不適切」であることだけは確かなのである。