「無知の知」をかんがえる

ソクラテスの言葉として有名な一句である。

彼が生きた時代は、紀元前470年(頃)から紀元前399年であるので、日本では縄文時代から弥生時代への変換点にある。
なお、この時期ギリシアのとなりのローマは共和制で、ずっと後の紀元前27年にオクタウィアヌスが、「アウグストス(尊厳者)」の称号を得て帝政に移行した。

さて、この句の意味は、自分は無知であることを自覚する、である。

奴隷制に支えられた当時のギリシア市民は、労働をしなかったので閑をもてあそび、その閑人たちが広場に集まってあれこれ議論するところから「哲学」がうまれた。
これが後の世界帝国たるローマにどのように影響したかは、そのまま欧米の基盤になったともいわれるが、本当のところ、深くかんがえていたとはおもえない。

古代は深くかんがえていた中国思想から、ぜんそくの重篤な発作で窒息・早逝した中島敦が残した作品に、『名人伝』がある。
春秋戦国時代の「列子」が原典というが、その春秋戦国時代が、概ねソクラテス時代とかぶるから、両者の似た主張はちょっとしたミステリーではある。

『名人伝』の主人公は、弓のとりことなって矢を放たずに鳥を射た「不射の射」を見せつけられたことから山に籠もり、とうとう弓を見てもそれが「弓」であることも忘れた、という議論をよぶ話で、ただのボケ老人の話ではない。

つまり、結末を読者に「かんがえろ」と委ねるようにはなしが仕組まれているのである。

いま、金融界で「A.I.バブルの崩壊」がいわれはじめている。
とてつもない金額が投資されて、A.I.開発競争が起きているが、開発されたA.I.が市場に出ても、ぜんぜん「カネ」にならないのである。

そのかわり、A.I.対応のデータセンター建設に、メモリやらが大量発注されて、パソコンメーカーが買い負けて、歴史的なパソコンの値上げ(4割以上か?)が予告される事態となっている。

多額の使用料を払う法人ユーザーはいるらしいがまだまだ小数だし、個人でA.I.を課金(サブスクリプション)してまで使うひとも、かなり限定されている。
かくいうわたしも、なるべくA.I.を使わないようにしているし、課金などいまのところかんがえていない。

そんなわけで、A.I.は騒がれているほど投資してもリターンがないと市場にしれた。

しかし、A.I.開発企業は互いに、人材の引き抜きやら共同開発やらと、合従・連衡しては分かれている不安定さもあって、もしも一社が破たんすると芋づる式の崩壊が懸念されているのである。

だが、前に書いたように、「A.I.:人工頭脳」といって騒いではいるが、『2001年宇宙の旅』に登場した、「HAL9000」のような完成度の高い人工頭脳のレベルではぜんぜんないし、『AIvs.教科書が読めない子どもたち』が太鼓判をおす、完成度の高いA.I.は絶対に完成しない、指摘を無視している結果だともいえる。

これを、過度の期待、という。

現実は、その低度なA.I.によって、じつは重大な問題のタネが蒔かれている。
それが、「かんがえることの放棄が習慣化している」ことなのである。
つまり、「教科書が読めない子どもたち」がそのまま成人になるばかりか、そんな子どもたちが今日も学校という政府機関で量産されていることの将来不安である。

この将来不安を、当の本人たちがかんがえつくこともないなら、かなりディストピアな未来到来の確立が高まるばかりなのである。

だから、思考ツール、としてのデジタル機器を上手につかうことが、いまどきの消費選択としては重要でかつ、「賢い選択」といえる。

デジタル手書きノートのまっさらな画面から、はて何を書こうか?となったときに、「無知の知」を意識するのと、白紙の紙で同様に意識するのとなにがちがうのか?と問えば、保存のちがいと、検索のちがい、の二つがある。

記憶としての知識は積み重ねることはできても、忘れるのが人間だからでもあるが、知識があっても発想ができないなら、無知とおなじだし、他人の言い分を全否定=全面的な自己肯定するのが現代のトレンドとすれば、それもまたソクラテスが2000年以上前に指摘したとおりとなってしまうのである。

ときに、わが国の縄文時代と弥生時代は、ギリシャ市民世界に劣っていたのか?といえば、そうではなく、武具もない、奴隷もいない社会だったことをかんがえれば、ギリシャ人がかんがえた理想社会が現実にあった、ともいえる。

この意味で、未来社会だったのである。

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