「行動経済学」のいまさら論

アダム・スミスの話(『道徳感情論』と『国富論)から、そもそも論を追いかけたら、「行動経済学」とぶつかった。

経済学の世界も御多分に洩れず、いわゆる「タコツボ化」が久しいようである。

いま、ふつうに「経済学」というと、「主流派経済学」という分野のことで、その分野の学会にいるひとたちを、そのまま「主流派」というのは、「最大派閥」という意味になるからでもある。

この意味で、学者さんも、人間なのであって、寄らば大樹の陰という心理がそうさせるのであろう。

前に、「主流」と「本流」について書いた。

日本の戦後政治で、自民党内の総裁派閥とこれを支持する派閥を、「主流派」といって、それ以外を「反主流派」といって区分けしていたことがある。

対して、「保守本流」なる作家の造語もあって、吉田茂の系統すなわち「宏池会」のことを指した時期もあった。
どうして、岸信介の系統、すなわち「清和会」を指さないのか?それとも何なのか?がわたしにはわからない。

一般的に「保守」とは、伝統主義とか民族主義的な要素があるものだけど、吉田にも岸にも、そのような感覚はなかったから、吉田はGHQのコードネーム「ポチ」になれたし、岸は絞首刑の前にCIAエージェントになる同意書にサインできたのだろう。

そうやって考えると、「保守本流」なる造語の意味は、ないものをさもあるように見せかける「方便」であって、もっといえば「ウソ」である。
この言葉を広めた戸川猪佐武をわたしは信用しない。

しかし、「主流」はあるが「本流」がない、とはこれまたどういうことなのか?

じっさいの「川」で考えたら、変な話である。

しかして、この変な状態が我が国の戦後政治の奇妙なことの本質ではないのか?
徒党を組んで数はあるが、中身がない。

これを、天才三島由紀夫は、「からっぽ」といったにちがいない。

さて、経済学ではなくて経営学の方面では、1922年から「ホーソン実験」で、人間とは感情がある動物であると発見されて再定義されている。
それまでの定義は、「人間は合理的動物だ(ホモエコノミカス)」というものだった。

ところが、経済学の「主流派」は、いまでも「人間はエコノミスト」であると定義して、さまざまな「経済(数理)モデル」をこしらえては各種シミュレーションをやって、これを論文等で発表しているし、学位もそうやってこしらえたモデルの良し悪しで授与が決まるようになっている。

驚いたことに、そんなのおかしい、「人間は感情ある動物だ」と、経営学が100年前に気づいたことを、2017年になって「ノーベル賞」「行動経済学理論発展の貢献」が与えられている。

しかして、アダム・スミスが道徳感情論で述べたことの再発見が「ホーソン実験」だったし、そのまた再確認がノーベル賞になったのである。

道徳感情論は1759年の発表であるから、ざっと260年。
時代も場所もちがえど、徳川幕府の期間とほぼ一致する時間がかかっている。
この意味は、枯れていた経済学にようやく「本流」が見えたことであって、「主流」は今日も本流とは別に流れているのである。

つまるところ、いまさらとはいえ、本流こそが重要なのである。

あらゆる思考の原点に、アダム・スミスがいることも、極めて重要な「発見」だといえる。
ビジネスに関わるならば、アダム・スミスの二冊は必読といってまちがいない。

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