「足袋」を履く

まだ半世紀前とはいえないが、高校時代に「和弓」のクラブに入会した。

残念ながら、わたしが通った県立高校には「弓道部」がなかったので、社会人のクラブに入会したら、自動的にわたしが最年少会員になったので皆さんから可愛がれたラッキーもあった。

小学校のときの運動会では、まだ裸足や足袋でいる同級生は多数いた。
わが家では、なぜか母が足袋を買ってきて履かされたものだったけど、周辺にも足袋の友達が多数いたから妙に特別な気分になって張り切った思い出がある。

おかげで、三位入賞の折り紙セットをゲットした。

むかしは、小学校の運動会でもいろいろとご褒美がもらえたのである。
今様の、変な平等主義はなかった。
折り紙セットといえば、「皆勤賞」や「精勤賞」でももらったことがある。

スニーカーなる履き物が存在しない時代、ここ一番で履くのが足袋だったのは、子供でも自分が日本人だと思ったものだ。
靴下で校庭を走っても、様にならないどころか走りにくいだろう。

新品の足袋が、家に帰る頃には穴があいていたものだ。
それでも、子供の柔らかい足を保護していたのは間違いない。

かんがえてみたら、むかしは「草履」もよく履いていたし、大人は「下駄」をカランコロンさせていた。
素足であっても、指の股はなぜか痛くなかった。

これはどうやら「歩き方」によるらしい。

「靴」にすっかり慣れてしまった、洋風の楽な歩き方では、「鼻緒」が指の股に食い込むのである。
「弥次喜多道中」では、江戸まで草履を一足しか交換しない(履きつぶさない)という武士が登場して、二人を驚かせる場面がある。

よほど鍛錬された歩き方だと、すなわち「お主できるのう」ということなのだ。

弓道の主流、小笠原流では、「射法」以前に、立ち方、座り方、歩き方を習うが、椅子の生活ではありえない筋力(普段使わない筋肉)を用いるために、数回繰り返すだけでも震えがやってくる。

日本舞踊も同様で、たとえば座った状態から「スッ」と立つのはインナーマッスルを駆使しないとできない技なのだ。

それで、「ナンバ歩き」が、いま注目されている。
手と足の出し方がおなじ、というのは誤解を生む。
むしろ、体内の筋肉である「体幹」を中心にした上下運動をイメージした方がいい。

この歩き方を、かつての日本人は誰でもふつうにしていたのである。

日本橋を早朝に出発して、一泊目が、遅い人で神奈川、ふつうで保土ヶ谷、達者で戸塚っだったというが、じつはすごいスピードなのである。
京浜急行の駅名が、「仲木戸」から「京急東神奈川」に変わったのが残念で仕方ない。

いまはどこだったか不明とはいえ、徳川将軍の休憩所「神奈川御殿」の入り口があった名残の地名が「仲木戸」なのである。
しかして、江戸を経った将軍の一泊目が、まさに神奈川だったとは、相当の遅い到着だったにちがいない。

いま、お江戸には数軒ほどの「足袋専門店」がある。
東銀座の「むさしや」さんは、白足袋以外、たとえば武士の常用「紺キャラコ」もある。
この布地は、もう日本で(=世界で)一カ所しか製造していないという貴重品だ。

一足は、約6000円ほど。

これを履けば、ちゃんとした「日本人」になれる?かもしれない。

足袋は、きつくピッタリさせて皺ができないのが美であって、それが「サイズ感」なので、靴下に慣れた足が締め付けられて、留め金のこはぜがなかなか入らなかったりする。

けれどもこれが、指の股を刺激するので、なんだか頭が冴えるのである。

現代の日本人が、ボーッと生きて「チコちゃんに叱られる!」のは、もしや足袋を棄てた生活をしているからかもしれない。
呆け防止になるのでは?ともおもえるのである。

ならば、安いもの、と価値観を改めた方がいいのである。


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