「部活廃止」の文化侵略

神戸市(教育委員会)が、市立中学校における部活を26年度にて「終了」し、「地域移行」とすることを全国で初めて決定した。

例によって、「持続可能性」という政治用語を用いていることが気になるので書いておく。

どうやら、一番優先すべきの問題は、教師の負担軽減であって、それが「持続可能性」を担保するという理屈のようであるけれど、それでなにの「持続」なのか?がピンとこない。
結果的に、「地域移行」というのは、地域ごとに生徒を集めてチームなりの練習を行うという計画で、その地域ごとに専門のコーチを雇用することになるという。

そもそも、中学校における「部活(動)」とは、「課外授業(「教育課程外」の略)」のことである。
それが運動部であれば、基本的に「学校対抗戦」をやって、勝ち抜いて市大会やら県大会、はたまた全国大会へと進むことで、高校からの優秀選手の争奪戦もあることを前提としている。

だから、かんたんにいえば、「部活動を地域で集約した」ということとは、「学校対抗戦」の否定だと解せる。
すると、このことは「愛校精神」という集団の帰属意識に多大な影響があることを意味する。

たとえば、ポーランドでは「愛校精神」なるものが存在しないと書いた。

つまり、神戸市(教育委員会)の意図するところが、ますます不明なのである。

本ブログでは、国家による教育の独占が行われていることを批判的にみている。
明治時代に、「学校」ができたのは、近代統一国家としての国家防衛上の喫緊の課題であった。

それは、西洋列強による弱肉強食の世界にあって、「国民軍兵士育成」という大命題があったからだが、これが敗戦後もまったく反省されるどころか、かえって強化されていることに問題があるからである。

これを総じて、「管理教育」という。

ようは、「教育課程=学習指導要領」に全国一律で従うことが前提とされ、まさに「金太郎アメ」状のなかで、製品分別仕訳の基準に「偏差値」を用いているのは、ほんとうの物質としての「アメ」とおなじように人間を扱っているのである。

そのために、偏差値の高いもの=無条件に優秀と社会認知しているだけの、見事な工業的大量生産方式になっているのを、だれにも疑問を持たせないように社会構造=洗脳をさせてきた。
しかし、それが、近年の国家的衰退の元凶、すなわち「人材の枯渇」原因でもあるのだ。

「多様性」をいうものほど、「多様性を認めない」のは、いまや世界共通のポリコレである。

さて、「部活」とはなにか?

じつは、わが国に独特の制度であるから、他国においては存在しないために、「マンガ」や「アニメ」文化の世界的な普及で、世界の青少年が「羨む」校内活動になっている。

そこで、「部活動の歴史」をみると、スポーツについては東京帝国大学が発祥で、ここから教師になったOBたちが全国の学校に普及させたという。

ちなみに、同じ場所にあるからややこしいが、圧倒的な優秀さだったのは、明治のはじめにできた「東京大学」で、それから「帝国大学シリーズ校」としての「東京帝国大学」になり、戦後の「新制大学」としていまの「東京大学」と、まったくの「別物」があたかも同じ顔をして惚けて存在しているので騙されるのである。

もちろん、騙しのトリックに「偏差値」があるのはいうまでもない。

さてそれで、学校の本分とはなにか?という問題がすっかり隠れてしまっている。
義務教育における「中等教育」は、いまでは「前期」までで、これが中学校の範囲なのだ。
「後期中等教育」は、全入時代とはいえ、「(新制)高等学校」という位置づけになっている。

それゆえに、「(新制)大学」では、二年生までをかつての「高等学校並」として、残りの二年を「専門課程」といいながら、じつは「大学教育」という扱いになっている。
これが、世界的に日本人の「学歴」が低いという理由なのである。

いまや世界を相手に学歴で勝負するなら、「大学院」にて、「修士」か「博士」の「学位」を得ないといけない時代になっている。

それならば、日本独自の運動部にいながら学業でも成績優秀ならまだしも、そうでもないというなら、どうしたらいいのか?という問題が、義務教育の中学校の後にどこへ進路をとるべきか?ということになるのだが、いまの学校制度ではやたら選択範囲が狭いのである。

こうしてみると、たかが「部活廃止」をしたところで、生徒の将来にどんなメリットがあるのか?がよくわからない。
やっぱり教員の負担削減が目的ならば、それも急激な「少子化」のことをかんがえると、教師の定員と生徒数の不均衡は、ずっと生徒の数の方がはやく減ることが予想できる。

だとすると、「部活廃止」とはなんなのか?

ぜんぜん生徒に対する、オリエンテッドな発想ではないのである。

おそらく、「文化破壊」という政治的なテーマの方がよりハッキリとした「目的」ではないのか?と疑うのである。

ポーランドは、社会主義政権時代の「名残」としての「愛校精神否定」であることに注意したい。

それにしても、どうして全国初が「神戸市」なのか?もよくわからないのである。

なにかと、兵庫県がかまびすしい。

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