社会を人為で設計する、という発想は、ミクロでいえば企業経営の日常にも見られることでもある。
この事業をするから、こんな会社にしたい、とかんがえるのは積極的に推奨されるものだ。
なので、株主に、社長が説明するのも義務化されている。
そんなふうになったのは、わが国の「改革」で、政治が役所を使ったのか、役所が政治を使ったのかは横にしても、お国が「株式の持ち合い制度をやめる」ように財界を通じて指示したからであった。
ようは、わが国の経済団体が、政府の軍門に下ったので、かつての「政府と対峙する」という姿勢が吹き飛んだのである。
あたかも「じゃんけん」のように、政府・財界・労働界が、それぞれバランスをとることがひつようなのに、いまは十把一絡げの「翼賛」状態になって、すっかり共産化した。
この意味で、近衛文麿内閣の「夢」が、岸田文雄内閣で実現している。
しかしながら、どうして日本政府がそんな持ち合い解消指示を出したのか?についての議論はあまりなく、「株式会社は株主のもの」という、突如とした企業所有論が先行して、とうとう「株主資本主義」ということばが生まれるに至った。
こんな用語は、学校でも習わなかった。
むしろ、オランダ「東インド会社」がやった、株式会社の発明、こそが、資本主義の誕生だったのではないか?とすれば、あらためて「株主資本主義」なんて言葉はひつようない。
だから、資本主義というのは、定義が曖昧なだけでなく、マルクスが共産主義を説明するために都合よくでっち上げた、ただのアンチテーゼなのだといえる。
なのに日本人が発明した、「株式の持ち合い時代」とは、「株式会社は誰のものなのか?」がはっきりしない、「変な資本主義」だと非難の対象になったのである。
しかし、いわずもがなの、「会社は従業員と経営者のもの」だったから、生活向上と会社の発展がイコールになっていたのである。
貧農から武士になった二宮尊徳が説いたごとく、勤勉さを基礎にして、このイコールが、がむしゃらに働いたことの原動力だった。
身分制がある、ヨーロッパ人には理解できない行動原理がこれだ。
いまからしたら、「陰謀論」であろうがなかろうが、「株主資本主義」がアメリカからの要請=命令だったと気づくのは、いいセンスだといえる。
アメリカ民主党は、肥えらした日本経済という家畜を、とうとう喰らいにきたのである。
「ものをいう株主」がでてきた当初の違和感はもうなく、「ものをいわない株主」こそが権利行使もしない変な株主だということに常識が転換したのは、すさまじきプロパガンダの成果である。
これを日本経済を専門に扱っているといわれている(これ自体もプロパガンダ)新聞社が担っているので、この「新聞」を読むと、経済音痴が伝染するはめになってロクなことにならないと気づいたから購読をやめた。
では、ものをいう株主とは、なにをいっているのか?といえば、企業経営に対する「物言いをつける」ことをいう。
相撲の「物言い」とおなじだが、ときには「いちゃもんをつける」のと同様のこともある。
もちろん、一単位しか所有していない程度では、会社側も相手にしないから、数%以上を保有している「機関投資家」がこの手のものをいう株主なのである。
だから、ものをいうのは、その機関投資家の社員か経営者ということになって、このひとたちは個人的趣味・嗜好で「論破したがる」性質をもっている。
いわゆる、「オラオラ」を大株主の立場でやるのが、優越感となるから、楽しい、という実に下賎なひとがいて、日本人的ではない気持ち悪さがあるのだ。
こんな人物たちが、たいがい高学歴なのは、そういう風になるような教育制度になっているからである。
さてここで、「設計主義」が登場する。
大株主の持ち分が会社の所有権の持ち分とおなじ意味なのだ、というのが、株主資本主義の唯一の主張である。
なので、「いちゃもん」自体も、持ち分の発想からいうだけなので、いわれた会社側はどう解釈したものかなんだかわからないから「いちゃもん」になる。
たとえば、30%の持ち分があれば、その「いちゃもん」の30%分を実現せよ、といちゃもんをつけるのである。
ところが、そのいちゃもんを実行したら、会社はコストが増えるだけで損をして、株価が下がるとまで説明して、ようやくいちゃもんを取り下げるというオチがつくのが関の山なのだ。
そんな説明の筋書きを総務担当者やら企画担当者にやらせるだけで、人材と時間のムダ遣いをさせることになるけど、「いちゃもん」だろうが、「物言い」をやったという実績を残さないと、機関投資家の社員としての仕事をしていないと社内評価されるのが困る、という側面もあることは否定できない。
ようは、人事評価の設計がおかしい会社が投資会社で、ふんだんな資金があるとこうなるのである。
そういった大規模なヘッジ・ファンドなどは、有名な投資家(じつは「投機家=ばくち打ち」)からのし上がったので、ろくな組織マネジメントをしてはいないが、パフォーマンスの高さから、欲深い者たち(おなじムジナ)がカネを出して、合同でばくちをやって荒稼ぎしているのである。
彼らの感覚は、ヨーロッパ中世そのものの時代感覚なのである。
それで、自分たちの都合に有利なように議会や役人の家族を雇うなどして、金銭でコントロールするのは、野蛮な欧米人の発想としては、当然なのである。
これを、「強欲資本主義」というひとがいるが、そうではなく、欧米で一度も資本主義が成立したことなんかない、気分は重商主義とかの中世のままだからである。
彼らには、資本主義とは幻だから、「資本主義成立の歴史的定義」は、いまだに定まらないのは、当たり前のことである。
実態もなく存在しないものの定義なんかあるわけがない。
それでどうして、「株式の持ち合い時代」のわが国企業がいまよりずっと高い成長をしていたかといえば、「餅は餅屋」というわが国伝統の価値観に合致していたからである。
それで、餅屋なのに、餅の品質やらが落ちたら、銀行からカネではなくてひとがやってきて、餅屋らしくなるように指導したものだった。
銀行にも、勤勉の道理があったのである。
それを渋沢栄一は、『論語と算盤』で、ちゃんと説明しているのに、いまでは渋沢が創った銀行さえも、「おとぎ話」にしているにちがいない。
ところが、その銀行が当たり前に疲弊して、あらゆる業界にひとを出しても、ぜんぜん使えないので、なんなんだ?にもなって、とうとう役所の補助金に依存するようになっている。
その原因は、「餅屋らしさ」を追及せずに、損益計算書の数字だけを追及して、へんな設計主義を強制するからである。
残念ながら、銀行も銀行業とはなにか?を金融庁と日銀に破壊されて、自分たちさえ「何屋だか不明」になってしまった。
ために、銀行の指導で、「餅屋」が多核化したりして、「何屋」だか不明になっても、数字さえよければそれでよい、ということに落ちこんだのである。
まったくもって、アナキン・スカイウォーカーがダース・ベイダーに転落したごとく、なのである。
企業の社会的責任とか、企業倫理とかが宙に浮き出したのは、国民の道徳がアメリカ民主党(トロツキー派)によって破壊されたからである。
その手先の一派が、「国民の道徳批判」を世に出して、正体を現したのも、トロツキー派の邪悪がダース・ベイダーと同様の使命感に変換されたからだろう。
あなおそろし。