明治初期の鉄道による、「文明開化=伝播」には、付随した「文明」があった。
それが、「電信」と、「建築」であり、結果的に「近代的な街づくり」となって、「駅前広場」の周りには、「近代文明」そのものの、これまでになかった舶来の仕組みである郵便局に銀行や舶来品を扱う商店が建って、むかしながら、を圧倒したのである。
こうした事物が、「浮世絵」の技法を応用した「錦絵」となって記録されている。
この意味で、錦絵は芸術性よりも、時代の記録媒体として「写真(「映画」も含む)」が普及するまでの重要な「映像遺産」なのである。
新橋=横浜を約1時間(53分)で結んだ、「陸蒸気」は、当時の高速移動手段であって、現代のリニア開通にも匹敵する大事であったろう。
徒歩か馬しかなかった時代である。
運賃は、上等:1圓12銭50厘=1両2朱(約10,870円)、中等:75銭=3分(約7,250円)、下等:37銭50厘=1分2朱(約3,620円)で、いまの新橋・桜木町が530円(新料金)でグリーン車750円(Suica)を加算してもずいぶんと高価である。
なお、今春のJR東による運賃値上げでは、東京・熱海間で、JR東海の新幹線と、在来線特急の値段差が広がる。
在来線特急の方が、高い、のである。
もはや国土交通省による運賃調整が「あってない」状態であり、国民資産の「旧国鉄=JR」が儲け主義に走ることは、国民に対する不道徳な挑発となっているが、だれも批判すらしなくなった。
しかして、その「新橋駅」も「横浜駅」も、西洋建築が忽然と街に現れたものだし、鉄道開業から暫くして、鉄道線路横には「電信柱」が林立し、東京の運上所=税関(現東京国税局)と、横浜の裁判所(現横浜地方検察庁)を現在のインターネットのごとく瞬時に情報が届く「電信」によって伝わったのである。
なお、双方の敷地に、「電信発祥記念碑」がある。
ちなみに、上の電信開通は、鉄道(明治5年開業)よりもはやい明治2年のことであった。
このことは、「JR」になっても変わっておらず、鉄道網を利用した一般通信用としては「日本テレコム」から「ソフトバンクテレコム」に移っている。
しかも、「郵便局」の開設は、近代化そのもので、「手紙」だけでなく、「郵便為替」によって全国に「おカネ」が運ばれたも同然となったのである。
それで、江戸期に発展した「両替商」は、「銀行」となって従来からの「手形」に加え、「小切手」を扱うようになったのである。
五街道をいく旅人が軽装であったのは、山賊などからの被害予防で「旅手形」がすでに普及していたからで、『東海道中膝栗毛』でも、弥次喜多の両人が胡麻の灰(詐欺)の被害にあっても動じないのは、街道に整備されていた飛脚便で江戸に手紙を送り、両替商が発効する「旅手形」を受けとって、宿場にある商家で現金化することができたからである。
ときに、井伏鱒二が『駅前旅館』を書いたのは、昭和31年9月からの『新潮』への連載で、昭和32年9月に第13回で終了し、同年11月に『驛前旅館』として発刊されている。
映画では、「駅前シリーズ」の第1作(全24作に及ぶ)となるきっかけをつくった『駅前旅館』が公開されたのは昭和33年7月だから、当時のスピード感はいまよりずっと早い。
映画人たちの寝食を忘れた多忙ぶりがみえてくるけれども、物語はいまよりずっとおおらかで緩さにあふれているために、「ゆるキャラ」なんてものも存在していない。
なんにせよ原作が井伏鱒二なので、「旅館」にまつわる描写が「業界人向け」ともいえるほど細部に渡っている。
あんがいとその「用語」の扱いも、いまでは「遺跡」の感がある。
原作がそんな内容なので、「映画版」の方も昭和30年代の初頭を伝える「記録映画(ドキュメンタリー)」の意味もあって、「資料的価値」があると評価されている。
これからわずか10年余りで、高度経済成長の波が時代の空気をもすっかり洗い流してしまい、さらに「効率」を正義とした息苦しい「管理社会」へと邁進するからである。
こうした反動が、本作シリーズと並行してあった「社長シリーズ」にもあらわれている。
「駅前24作」で扱われた「業」を、ざっと以下に示すと、
旅館、不動産、飲食店、寺院、商店街、病院、金融、大学、高校。。。
まったく、全国どこにでもある「駅前」の光景であるから、本作は徐々に「ご当地もの」へと変容するが、判を押したような開発が全国に展開していったことを示すので、明治からの駅前開発をぜんぜんやめていないわが国の文明伝播のパターンが確認できる。
「駅」そのもの、つまり「駅舎建築」にも特徴があって、県庁所在地の中心駅は「モダン建築」で、ローカルな駅舎は「おざなり建築」で統一されていたものが、時代の発展とともに変化して、中心駅は「ポスト・モダンの無機質」と化し、ローカル駅舎は「モダン」へと変化したものの、中心とローカルのヒエラルキー型の構造が変わったわけではないのも特徴である。
ようは、全国に「東京」を伝える運動はとまっておらず、分散統治の象徴でもある「藩庁」があった地方都市が、どんなに中央集権の中心たる「東京」を真似ても、まったく東京になれっこないので、磁石の吸着力のごとく、ひとは東京に集まることになっていて、地方の衰退がとまらない、ということになっている。
これは、地方における「産業空洞化」が原因でもあって、生産力を地方から奪う「ソフト化経済」の流れが「東京」によって伝播しているからともかんがえられる。
つまり、地方では喰えない、という意味となるが、上に挙げた「駅前」の「業」に、農林業や製造業がないことでわかるのである。
なんと、地方から東京への人口移動とは、江戸時代用語いう「逃散」のことなのだった。
その逃散をとめる「正当」でまっとうな政策として、安易でしかない「観光振興」に堕ちているけれど、効果がないのも当然なのである。
生産力に立脚する観光業は、経済(力)の頂点ではあっても基盤になり得ないからである。
明治からの「正当」な、文明開化の伝播方式を、幕藩体制的な緩い地方の独立経済に戻すことが、現代の「正当」だということなのである。

