「高校野球」という病理

広島の名門、広陵高校(野球部)が夏の甲子園で初戦を突破した後に辞退した、107回のなかで「史上初」となったから世間も一緒に揺れているらしい。

「らしい」というのは、わたしがあまり興味ないだけなのだが、世間では興味が集まっているというから書いておく。
なお、本件は捜査当局による「事件」として受理されている。

念のために、退部どころか転校まで余儀ないこととなった被害者とそのご家族には先にお見舞い申し上げる。

ネットでは、本事件をうけて、島根県の県立高校「女子硬式野球部」でも一年以上先にSNS発信されていたイジメ事案が、ようやく浮かび上がるという余波も起きているから、今後また世間の話題になること必定なのである。

ときに、本件の騒ぎをうけて、高野連は、あっさりと年間1000件に及ぶ同類の報告を受けていると発表して、あたかも「よくあること」として特段の問題視をしていないことを示唆していたことも、歴史的途中辞退「前」でのことであった。

つまり、「余波」が1000件以上でてくる可能性を秘めている、なかなかのスキャンダルなのである。
なので、外国(マレーシアや英「ガーディアン紙」)にも報じられるありさまで、不名誉な国際的知名度があがる事態になっている。

あくまで「国内ローカル」でかつ狭いスポーツ競技の特殊な事象だと信じた関係者(おとなたち)の浅はかこそが致命的なのであるけれど、これぞ精神が堕落した現代日本の「世相」をあらわす「鏡像」なのであろう。

そこで見え隠れするのは、「うち:内」と「そと:外」という結界をともなう概念が強まりすぎた結果だといえる。
いわゆる、節分における「豆まき」でいう、「うち」と「そと」がモンスター化したのは、これらが日本人の特性である概念だと意識しないことの罰を受けることになったのだ。

教育者の集団としての学校におけるおとなのこの実態が、本件の「浅はか」の根源にある。

つまるところ、いまの教育者を子供時分から育てた「教育環境」の浅はかが、数十年の時を経て顕在化した、ともいえる。

それが、「日本人」とか「日本文化」を形成する「共同体」すら一切教えないことの結果なのである。

この意味で、2023年の夏、慶應高校の応援が、もっとも堕落した事象であったにもかかわらず、これを礼賛する世間の浅はかさが、今度は「攻撃」へと転ずる浅はかさになったのである。

少なくとも福沢諭吉の建学精神を慶應義塾が学校として喪失したことを、ときの塾長はじめ高等部校長の嬉しそうな態度が「おバカ」状態であったと誰も批判しないことのおバカがあった。

こんなザマの学校を、わが国を代表するエリート校だという感覚が、はなしにならないだけでなく、そのリニアな延長に今回の事件があるのだとも気づかない。

共同体の「うち」と「そと」という日本人特有の文化的な行動様式(エートス)を、深く理解していかに冷静にコントロールするのか?こそがエリート(指導者)なのだという発想を育てるべきところ、熱狂に飲み込まれることの快感・愉悦にひたる愚かさが、その共同体を破滅に導くのだと、80年前の「敗戦」からも一切学ばないのである。

これぞ、病理、である。

世界の教育現場に類をみない、わが国の「部活」は、子供たちにこうした病理を埋め込む装置に化していないか?
だからこそ、年間1000件にも及ぶ問題がありながら、これを解決すべき問題だと認識もできないおとなをエリートだとする愚が世間に蔓延しているのだろう。

それが、教育委員会にも文科省にも、民間企業にも、あらゆる場面にある事象となってこの国を覆っているのだ。

80年前に皇居前に集まり、うなだれた人びとの精神状態と、じつはなにも変わっていないことが驚異ともいえるのは、それが日本人のエートスだからである。

しかし、この80年間、だれもこのエートスに内包する病理を解剖もしないで放置したことの結果であり、多感な時期の若者を病ませる方向に導くかつての若者(いまのおとな)を累々と製造する教育システムが臆面も無く継続するばかりなのである。

大リーグがあるアメリカ人はなぜに「全米高校野球大会」を開催しないのか?

エートスが異なるからである。

おそらく、高校野球がビジネス化して、近代オリンピックが、ヨーロッパ貴族の暇つぶし興行としてはじまったように、生徒たちをカネづるの芸人としてしかみない特権的おとなの利益の源泉になっていることが直接の原因なのである。

かんたんにいえば、選手の生徒たちが奴隷として働かされているともいえる。

つまり、高校野球をふくめて、実質的な児童労働の強制を、あたかも本人や家族たちの自主的な選択としてやらせる高度な洗脳がある。

さらに、日本にはGHQが命じた「3S政策」という愚民化がある。
これが、いまでは「家畜化」に進化しているのである。

幼稚園から大学までの教育は、国民家畜化にそった方針で一貫しているとかんがえれば、ジャン・バルジャンがパンを盗んだごとく、こっそりカップラーメンを食べたらこうなったことの結末は、はたしてフランス革命にいたるはなしとどうリンクするのか?が気になるのである。

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