いまや世界最大の「ニュースサイト」になったといわれているのが、「X:旧ツイッター」である。
オーナーのイーロン・マスク氏は、全世界の個人がニュース発信者になることを、あたらしい、と表現している。
なので、古い=オールドメディアは、「X」を目の敵にしていて、「言論統制」をやりたいグローバル全体主義に傾いた政府をつかって、あからさまな弾圧を目論んでいる。
オールドメディアと政府は、歴史的に「相互依存関係」があるので、「言論統制・弾圧」についての親和性は高い。
そこで、これを最初に実行したのが、アメリカの2020大統領選挙におけるさまざまな仕掛けであったが、その後あからさま、かつ、忠実に再現された感にあふれるのが、ブラジルの極左ルーラ政権で、先月8日、とうとう最高裁判所裁判官の命令で「X」は禁止されたのであった。
だが、これより前の8月30日には、同国で「サービス停止」となっていた。
それで、わが国を代表する左翼紙の東京新聞は、先月4日付けの「社説」で、『マスク氏のX 言論の自由を脅かす無法』なるタイトルで沸かせてくれた。
以下引用すると、
「独裁者のような無勝手な振る舞いに、国連の報道担当官が『報道の自由はおもちゃではない』と苦言を呈したこともある。言論の自由は、言論空間の参加者が事実を重んじ、互いを尊重することで守られるが、Xに限らずSNSではうそや暴論、憎悪表現や中傷がはびこり、現実世界での暴力や混乱を招く温床となっている。その行き着く先は、権力による言論への介入、言論統制だ。マスク氏は、言論空間の無法化をとどめるどころか、自ら火に油を注いでいる。そうした自らの言動が言論の自由を危うくしていることに、早く気づくべきである。」
言葉というものは、誰が言ってもおなじ意味をもつ、ということはなく、ふだんからの言動をもって連続的に解釈するのがふつうだから、ふだんの東京新聞の立ち位置からすると、ずいぶんと自分たちのことは棚に上げた都合のよいことを書きたてている、という印象になる。
この「社説」の大胆さは、言論統制実施のための理由づくりをしていることにある。
そして、この手の思想の持ち主(全体主義者)に共通のダブルスタンダードこそが、「ニュースピーク」なるジョージ・オーウェルの造語で、反対語とセットで語る「語法」なのである。
実例を挙げれば、アメリカの連邦司法省は、「United States Department of Justice」と、冗談抜きで「Justice:正義」と書いてあるから、直訳すれば「正義省」ということになる。
これを、オバマ・バイデンの両政権が、「不正」と「武器化」に利用して、SNS企業を配下に右派とみられるアメリカ人を攻撃するのに用いたのである。
この反動で、社名まで変えた「X」が巨大化したし、「Facebook」のザッカーバーグは、とうとうトランプ邸を自ら訪問して、過去の対応について直接謝罪している。
しかし、「インターネット」について、かつて散々言われた「玉石混交」が、もう常識になったので、現代人として「玉」と「石」を見分ける能力(リテラシー)がとっくに必須となった。
日本の学校教育がこれに追いついていないのは、政府に都合がいいためにわざとそうさせているとおもわれる。
だがこうした「玉石混交」は、また厄介な社会が到来したという意味であって、その厄介さとは、おおむかしの「中世」の再来となったことを意味する。
つまり、現代は、「中世2.0:新しい中世」だといえる。
前回の中世という時代の特徴は、大塚久雄が指摘したように、「詐欺、掠奪、冒険」の3要素で成っていたから、尾てい骨のように「騙すより騙される方が悪い」が現代でも有効な社会につながっている。
これが、中世2.0では、より端的になったので、「リテラシー」が強調されて、騙される方が「もっと」悪い社会になっている。
しかして、全体主義の悪魔は、政府や既存メディアの報道さえ信じていれば、騙されることなんかないのですよ♪、とリテラシーの少ないひとたちを誘惑しているのである。
これが、「分断化」の本質で、政府や既存メディアを信じることに決めたひとと、信じないことに決めたひとを完全に分離する。
よって、「分断化推進者」とは、政府や既存メディアにほかならない。
そして、この分断化推進者たちの根底には、全体主義者らしく、しっかりとした「自由への憎悪」があるのだ。
よって、政府や既存メディアを信じると決めたひとの特徴に、「奴隷(だれかに支配される)であることの喜び」がある。
その「喜び」とは、自分でかんがえることが面倒くさいので、これをしなくて済むというお気軽さだけでなく、自分が社会の構成員であることすら意識しない無責任のことをいう。
さて以上から、だれでも自由に利用できる「X」には、当然ながら全体主義者も「石」として混じってくるが、これらの者たちは、「玉」であると偽装するから、それが「石」であるのか「玉」であるのかを見分けることをしないといけないというステップが生じるのである。
その見分け方に、「憎悪を煽るか否か?」があるのは当然だ。
「石」は、憎悪を煽って、グレシャムの法則のように、「玉」を排除しようとする。
しかしながら、こうした作業をしなければならない一方で、オールドメディア全盛時代では決してこのような作業をしなくてよかった「理由」をかんがえると、残念ながら、「X」の存在意義がいかに画期的なのかがかえって確認できるのである。
オールドメディアは、過去何十年にもわたって、ひとびとにかんがえさせることをしないで済むような偽装を巧妙にしてきたが、その理由に情報の一方通行が可能だった「情報インフラそのものの制約」があっただけだからである。
つまり、イーロン・マスク氏が言う、「個人がニュース発信者になること」の画期とは、こうしたオールドメディアではでき得なかった受け手のあたらしい手間による「発信と受信双方の効果」こそが最も重要な、コインの「表・裏」なのである。
このように、全体主義を目指す者共にとって、もっとも効果的だったオールドメディアによる情報操作がきわめて困難な事態となったのである。
その最大の成果が、トランプ当選、連邦議会での共和党多数である。
これが、まさに東京新聞のような典型的オールドメディアからしたら、「X」を敵認定してはばからない「憎悪」の対象になって、実際に憎悪の拡散を画策するという、わかりやすい行動しかもうできないまでになったのである。
なので、イーロン・マスク氏が、今後「MSNBCの買収」をするかもしれない「噂」に、「X」ユーザーたちが大いに期待したのは、いよいよオールドメディアという舞台での「敵討ちの決闘」がはじまることへのワクワクなのである。