『ルックバック』と『戯作三昧』そしてヴェートーベン

「雅楽」について、石田多朗氏と高橋弘樹氏の対談動画がおもしろい。

終盤、互いに製作者としての「産みの苦しみ」と「恍惚感」について語る場面では、一種の「神がかり」状態についての体験談になっていて、わたしもおおいに共感できたのは、企画屋(組織内官僚)としてそれなりの感覚をあじわったことがあるからである。

個人的体験でいうと、この境地にいたるには、石田氏が語る「うんこが漏れそう」とまではいかなかったが、本人の意思ではないのに極度の緊張をもたらされた中学校での生徒会長立候補の立ち会い演説会を経てからの生徒会運営における、これまた困難の連続経験であったし、高校では予算委員長をやらされたときの、カネにまつわる同輩たちの貪欲さに辟易したこともある。

大学ではそれなりに歴史あるクラブの会長(第24代だった)になって、やはり組織運営の困難=人間集団との葛藤にみまわれて、日々七転八倒するような目にあったのである。

それゆえに、しぜんと「人間」についてかんがえるようになって、予算におけるコントロールの妙を得たのは役所でのアルバイト勤務での経験となったのである。

それが、後になって企業内における昇華となり、コンサルとしての目線になった。

本稿冒頭の対談における高橋氏が語る好きな小説に、芥川龍之介の『戯作三昧』が登場し、これに石田氏が、藤本タツキの『ルックバック』との共通性を指摘する。
わたしには、もっと絶望的で救いのない、山本周五郎の『虚空遍歴』をイメージさせた。

なお、『ルックバック』は今年、是枝裕和監督の下、実写版映画として公開される予定である。

この対談における石田氏の、「雅楽の聴き方」もまた興味深い。
なにせ、「自然」を相手にしているので、人間の聴き手を相手にしていないのだから、空や海をみるような気分で味わうものだ、という。

雅楽に用いる楽器自体は、それぞれがバラバラに伝播したというが、これを日本人はまとめて用いることとして、なお、楽器の進化を禁止した。
まったく西洋の楽器の進化と、人間を相手に聴かせる目的との真逆がある。

それがまた、西洋人にはない感性の「幽玄」となるから、まったくもってむかしの日本人は「死の世界」と「現世」とを自由に巡っていたのである。
そうやって、室町期に観阿弥と世阿弥の親子がでてきて、「猿楽」を「能」に昇華させ、「幽玄の世界」をひとびとに目撃させた。

江戸も後期になって、上田秋声が『雨月物語』を書いて、戦後の昭和に溝口健二監督によって実写版映画となった。
西洋の「怪奇小説」とまったく趣が異なるのは、「雅楽の思想」を原点にもつ日本の特異が改めて確認できるからなのである。

この映画のサウンドトラックは、早坂文雄による、やっぱり「雅楽」と「邦楽器」の融合でつくられている。

すると、佐藤究の『幽玄F』も、日本人にしか書けないだろう。

しかして、西洋人も「産みの苦しみ」と「恍惚感」はしっている。
それが典型は、ヴェートーベンで、聴力を失っても絶対音感のために作曲に没頭できたのは、神からの試練なのだと悟ったにちがいない。

石田氏によれば、雅楽にかぶせる洋楽の奏者はみな絶対音感をもっていて、西洋音楽のピッチ(A=440Hz)と決定的にことなるA=430Hzでの演奏ができるのだという。

ヴェートーベンがたどり着いた境地として、彼なりの「幽玄」表現が、「第九」以降の「弦楽四重奏」の作品群になったとおもえるのである。

すると、ヴェートーベンの弦楽四重奏をA=440Hzで演奏するとどうなるのか?に興味が向く。

高橋弘樹氏は、どうしたら雅楽をもっと。。。というが、日本人に「日本人とは何者か?」という原点を教えることがもっとも効果的なのだろうとおもわれる。

文字による古典文学よりも、古典音楽の音色の方が、より高度な精神性を含んで保存されている可能性があることに気づいたのはおおきな「収穫」であった。

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