『西洋の没落』の必然がやってくる

シュペングラーは、「西洋文明は二十一世紀で滅びる」と書いて、これを、「運命であり、必然である」とした。

100年前の大著にして名著『西洋の没落』冒頭の言葉だ。

あっさりと、「西洋人は、あらゆる人間の普遍性」と述べて、ここに諸民族別のちがいについて考慮しない、いわゆる「西洋人らしい」思考の特徴も挙げている。

じっさいに、これこそが、「異文化共生」の正体なのである。

つまり、西洋人が決めた「異文化」と、西洋人が決めた、「共生方法」をもって、これを推進する以外の方法を認めない、という「強制」のことである。

我われが、こうしたあたらしい言葉に違和感があるのは、有無を言わせぬ強制がそこにあることと共に、「異文化=普遍性」にしてしまっている荒っぽさを感じるからである。

つまり、ぜんぜん異文化を尊重なんかしていないし、そのときの価値観の原点に、「日本人蔑視=反日思想」があることにも気づいているからだ。

たとえば、埼玉県川口市・蕨市のあたりで問題になっている、「クルド人」による傍若無人なふるまいを、元NHK職員であっても、もっぱらの保守人士だと思われていた、和田参議院議員が、大擁護する言動で支持者たちを混乱させている。

日本で最初の「ヘイト禁止条例」を定めた、神奈川県川崎市では、日本人がアジア人に悪くいうのを禁じるけれど、その逆はいっさい問題にしないのと同じなのである。

ここにある、「普遍性」とは、勝手に創り上げた政治的立場における「普遍性」のことなのである。
つまり、西洋人がやっている「ポリコレ:ポリティカルコレクトネス」そのものである。

すると、シュペングラーがいう、没落の論理的必然にはまりこんでいるのは、現代日本人の「意識高い系」という名の左翼・全体主義者たちを示すことが露見する。

前にこのブログで紹介した、ユダヤ教ラビの、マーヴィン・トケイヤー著『日本人は死んだ』(1975年)と、『新・日本人は死んだ』(1982年)の二冊に目をやれば、より具体的な警告が見えてくるばかりか、出版から40年以上の時間が経過したいま、もはや現実が記述してあることに驚くだろう。

なんだか、『北斗の拳』の決め台詞のようだ。

わたしは、トケイヤー氏も、シュペングラーの読者であるとかんがえている。
そのトケイヤー氏には、『日本には教育がない-ユダヤ式天才教育の秘密 』(1976年)という、至極当然の指摘もある。

この本から半世紀がたって、いよいよわが国の教育もいきづまっていることが、一般人にもわかるほどになってきている。

すると、嘆かわしいのは、わが国を政治や経済で牽引しているはずのひとたちの多くが、シュペングラーを読まずに、一介のサラリーマンから「昇格しただけ」なのだという貧弱なる無教養人としての育ちが見えてくるのである。

もちろん、今の西洋の指導者層も同様である。

残念ながら、トランプ氏とてもここに含まれるけど、「まだマシ」というのは、彼には最後の拠り所としての「信仰」があるからだ。

他はみな、「拝金主義」という信仰にふさわしくないぜんぜん別の心情を持っているので、誰からも尊敬されないのである。

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