人生山あり谷ありは誰でも経験するが、自分の劣化を意識してこれを維持する努力をするのはけっこう辛い。
十代の受験は、中学、高校、大学と三回あって、これらをぜんぶ志望校合格してクリアする者もいれば、そうはいかなかった者もいる。
ぜんぶ合格したからといって、その後の人生でつまづく者もいれば、ぜんぶそうはいかなかった者がその後の人生でうまくいくこともある。
ただし、これらの評価は、自己評価と他人からの評価があるので、絶対的なものではない。
悩み、という個人の内面に注目すれば、自己評価がなによりも優先順位が高い。
自己満足度という基準が個々人それぞれにあるからで、これはもう他人が介在できるものではない。
学校の勉強ができることの評価だけで、優秀と外部から評価されて、それで満足している風情でも内面で不安を抱えているひとはたくさんいる。
けれども、社会人になってあからさまに勉強をすると、他人から嫌味になることをおそれて、ほんとうに勉強しないひともいれば、逆に、学歴に関係ないと開き直って勉強するひともいる。
わたしの場合は、素人、というトップからの評価をたまたま耳にして、いわゆる昇華型の欲求不満行動となった。
頭にきて、勉強してやる、になったのである。
しかし、不惑の40代になって気づいたのは、これまでのレベルを伸ばすよりも維持することの方に努力を要することだった。
なるほど、江戸末期つまり明治初期の寿命が50歳だったことの意味を実感した。
生まれてからの一桁から30代までで、あれよと能力の伸び代がなくなるのである。
だから、この間が現役としてもっとも充実した時期となる。
しかし、いまは、その後、が長すぎる。
50を越えて放っておくと衰弱する能力を、いかに維持するのかばかりか、知らないで死ねるものかという気概を持たないと、とうとう正気をなくす。
それが、国会議員をみてわかる、つまり、漫然とした人生をおくった人間たちの集団サンプルなのである。
それをまた、漫然と生きたひとたちが選ぶという、マンガになっている。
70年代、つまりいまの後期高齢者たちが青春真っ盛りだったとき、ニヒリズムが流行った。
けれども、このひとたちのおおくは、ニヒリズムが何かを追求することなく、なにやらカッコ良さげなことばに浮かれたのである。
人生とは何の意味もない虚無である、とはどういうことなのか?
なるほど、いまだけ、カネだけ、自分だけしかない老人になって、敬老、からほど遠い個体となって息をしている。
しかして、やっぱりそれはニヒリズムなのか?
親父狩りにあった世代が、敬老世代だとニヒルな笑いでもして自嘲できるならまだマシだが、そんな者は皆無なのだと、自分よりずっと上の世代をわたしは冷たい目でみているのである。
とはいえ、正気を維持することが困難な時代になっていることは、確かなのである。
だから、自分は正気なのか?と自問しないといけないのは、ほんとうに病院にはいった経験がある、坂口安吾を見倣え!とまででなくとも参考になるのである。