この世の楽園ニッポン

毎日ボンヤリしていても生きていける。

これぞ「楽園」なのである。

気がつけば、みんなボンヤリしながら生きていて、わたしが孤立無援の孤独になっている気がするのは、楽園を楽園としてみていなかったからではないか?と気がついた。
芥川龍之介が、昭和2年に「ぼんやりとした不安」と表現したことの、真逆なのでカタカナ表記がふさわしい。

いわば、おおくが「一年中こたつのなかで暮らしている」ようなものなのだ。

だから、気を入れて、それこそ発憤しないと、こたつからでることができない。
それだから、ずっとこたつの中にいて、精神も身体も、なにもかもが吸い取られ腐るので、これを「ブラックホール」ともいうのだけれど、そこにいる本人には自分が腐りきっていることも気がつかないのである。

「スマホ歩き」が老若男女を問わないのも、延々と続く快楽の刺激に脳が腐ってしまっているから、中途で目を離すことができないのだと科学の証明がある。
いま、電車のなかでおおくの乗客が読書に没頭している光景をみるのは、モスクワであって、日本ではなくなった。

日本は過去の遺産で食いつなぐ状態になっている。

むろん、こうしたことをまともに指摘したとたんに大衆化した人物からえらく叱られるのだが、興奮して叱った方は、時間差があっても、やっぱりそれが適切な指摘なのだと気づくこともないのである。
それでまた、ボンヤリした快楽の「こたつ=ブラックホール」環境に身を置くことしかかんがえない。

生ける屍か?妖怪か?

いつ放送があったのかもしらぬが、ドリフの集大成番組があって、これを訪ねた先の古い友人が録画しているからと観せてくれた。
生存している加藤茶と高木ブーが、コメンテーター席に、リアルな放送を観たこともないだろう若いタレントたちと一緒に座っている。

この友人は、ずっと前からの一戸建ての家にとうとう一人暮らしとなって久しいのである。

それで、この録画を観ると思わず涙が出てくるというのである。
かつてのこの家の中の賑わいとドリフのお笑いが交叉するからであろうけれども、高齢者がひとりこれを観て泣いている光景を想像して怖くなった。

これはノスタルジーなのではない。

妖怪化しているのである。

それで、「孤独」についてのショーペンハウアーやら空海の話をしたら、興味をひくどころか怒りだしたのである。

そんなものに興味はないと。

しつこくも、なぜかと聞けば、これ以上の(深い=あたらしい)知識は必要ないというから、やっぱり妖怪化しているのである。

クリエーターとしての視点でも分析して鑑賞しているのでもない。
このアドリブのようなコント群が、おそろしくも計算されたリハーサルの結果だとしっていることとは関係ない。

それよりも、半世紀から前のドリフのコントで、いま笑うことがこの人物の「心の糧」になっていることに寒々とした自分がいる。
まともな話し相手を失っている寂しさを感じつつ、静かにお暇したのである。

彼が孤独なのではなく、わたしが孤独なのだ。

しらぬ間に、このニッポンの世は楽園だったのである。

しかして、青山学院大学の福井義高教授は、外国人が殺到しているニッポンがこの世の楽園だと証明していると喝破している。
しかも、本人たちが、ニッポンは楽園だと動画にアップしてくれていると証拠を示す。

教授は、100年後、世界の中で社会秩序が保たれている先進国は日本だけだと断言する。
他国はぜんぶ、ドカンと自滅する、と。
緩やかに衰退する日本が、相対的に、かつ、自覚なく、気がつけば唯一の先進国としての生き残るのだという。

残念ながらヨーロッパはもう間に合わない。

しかし、そうした日本の条件は、鎖国なき江戸時代への回帰だ、と。

なるほど、回帰。

いつの時代も、ニッポンは楽園だったのである。

たしかに、温暖帯に位置する島国は、地球上に日本列島しかない。
地球儀をみれば納得できる。

日本人の精神的余裕は、地上の楽園だからであろう。

だからこそ、いろいろと興味深いことがあるために、わたしはひとりで、むろん、自己満足もあって、図書館に通っているのである。

これも妖怪化しているのであろう。

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