どうする?「中道」の解釈

左(翼)でも右(翼)でもない、真ん中だから「中道」というのなら、ちょっとまった!がはいる。

わが国の政党で、「中道(政治)」をいったのは、かつての「民社党」と「公明党」であった。

民社党は、民主社会主義をイデオロギーとする「修正主義」を標榜していた。
ドイツでは、「社会民主党(SPD)」がそれだが、前身は「ドイツ社会主義労働者党」である。
ただし、ヒトラーのドイツ社会主義労働者党は、後々の組織で、SPDに至るものとはちがうので注意がいる。

とはいえ、この古い方のドイツ社会主義労働者党から共産党が分かれるので、「社会主義」政党である。

わが国では、社会党の右派から分裂して「民社党」がうまれている。

一方で、「公明党」は、「日蓮正宗」の在家団体であったものが、1991年に正宗側から「破門」された創価学会を母体とする政党である。
日蓮宗と日蓮正宗にもちがいがあって、日蓮宗の本尊が「大曼荼羅」に日蓮聖人の木造や釈迦如来などを祀るのに対して、日蓮正宗は、仏像を用いずに「文字曼荼羅」のみとしている。

いわば、偶像崇拝をしない、という点で、イスラム教的なのである。

それだから、公明党が民社党のように、「中道」を標榜したのには、宗教的な意味としてのちがいがあったはずだが、本稿冒頭のような「解釈」となったのはおかしなことではある。
なぜならば、仏教用語としての「中道」は、まったくことなる概念をいうからである。

かんたんにいえば、苦と楽、有と無、好きと嫌い、といった両極端ではない、すなわち執着の煩悩から解放されて悟り(涅槃)に至る高度な「道(八正道)」のことをさすのである。

そうなると、たとえばドイツなら、「保守」といわれてSPDと政権交代を繰り返した「キリスト教民主同盟(CDU/CSU)のような立ち位置が公明党には相応しいのであろうが、そうはならなかった。

これも「在家団体」だからとはいえないのは、ドイツにおけるキリスト教徒は、おおむねプロテスタントだからである。
むしろ、創価学会の排他性が「国民政党」に成長できなかったゆえんであろう。

それでもって、解散に対応するために、衰退の危機に怯えて急遽野合した、「中道改革連合」とは、真ん中に「改革」を挟んだサンドイッチ構造にみえる。
「連合」は、旧立憲民主党の支持母体の労組であるし、「中道」は、上で書いた旧公明党のかつてのキャッチだからである。

しかしながら、「中道」が、民社党がいっていた意味になっているので、旧来の民社党が名前をかえた国民民主党へのあてつけなのか?なんなのか?が不明なのであるし、「改革」なら「痛みを伴う改革」をいう、維新を連想させる。

つまり、「自・公・立憲」政権の従来型に、維新を取り込んでなお、国民民主も仲間入り?にさせるといった、「大野合」の準備をやっているようにしかみえないのは、あまりにも安易ではないか?

トランプ政権2.0が仕掛ける世界規模の「追い込み猟(漁)」について行けないのではなくて、食われるばかりの「撒き餌」になっているのが哀れなのである。

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