ひよわな女性としての日本人

昨日の鯖田豊之著、『肉食の思想』のつづきであるが、これより2年前に出版された『日本を見なおす』からの話だ。
民族としての特性を、「女性」と表現できるのが日本人だという。
なるほど、わが国は、「女尊男卑」だという意味でもない。

えらく厚かましくアクがきついと日本人が感じる、西ヨーロッパ人が、「男性」だとしたときの日本人が女性だというのである。

ここでいう西ヨーロッパとは、フランス、ドイツ、オランダ、英国などで、彼らが移民したアメリカも含まれる。
この点でいえば、西ヨーロッパと折り合いをつけるのが上手い中国も、男性だといえる。

ポーラン人で後にカーター政権の国務長官になる、ブレジンスキー博士は、『ひよわな花・日本』(サイマル出版会、1972年)という本を書いている。
まさに、ブレジンスキーという(男)の目からも、日本の弱さが女性のように見えたに違いない。

もちろん、日本人の半分は男性と女性であるが、国民性が女性だという指摘は、あんがいと当たっている。

ここで、あえて「的」という漢字をもちいない。

鯖田氏は、西ヨーロッパと日本の歴史を発展史として比較していて、両者は似ているとしている。
これは、西洋文明に対しての日本文明という見方と一致する。

もちろん、似て異なるものなのは、どこに原因があるかといえば、「肉食」を起点とした「麦食」と「米食」にあると規定している。

この似て異なる両者が、男女の出会いとして最初に失敗したのが、織豊政権を通じて鎖国に至ったことで、二度目の出会いとデートが明治維新からの「文明開化」と「富国強兵」だったけれど、それは第二次世界大戦で破綻した。

それで敗戦が、三度目のデートとなっていまに至っている。

一度目のお相手は、スペイン、ポルトガル、オランダ(元はスペインの飛び地)だった。
二度目の主たるお相手は、英国。
三度目は、アメリカをもっぱら相手にしている。

しかして、相手がかわったのに、はたして日本側はなにか変化したのか?といえば、じつはぜんぜん変化していない。
わたしがいう、日本人は真の反省をしてはいない、ということのもっと分かりやすい説明がここにある。

生娘が乱暴に扱われるのに慣れて、かえって心の深いところで自分を変えることなんかしない臈長けた女性のごとくだ。

この日本という女性は、国家意識も世界意識ももってはいないという、伝統的な特徴がある。

これは、「家族万能意識」が根深くあるからであって、古い日本秩序が嫌いな島崎藤村が、『家』で批判し、『夜明け前』で無意味とした平田(篤胤)国学をベースにしたものである。
むしろ、明治維新こそ「暗闇」とも解釈できるので、『日暮れ』がよかったのかもしれない。

しかしながら、わが国伝統の家族万能意識を利用したのが、明治政府高官たちが発明した、「国家神道」だったし、それが矮小変異した戦後の、「家族的経営」でもあった。
これを労働組合も歓迎したのは、なにより日本文化だからである。

つまり、天皇は全国民の父であったものが、企業は一家、に変化して社長(経営者)は家長と認識されていたことが、あまりにも強力なパワーを生んだために、アメリカが再度悲鳴を上げて壊すように命じたのである。

それで、「小泉・竹中平蔵政権」が軍産複合体のアメリカに盲従して実行したのである。
カウンターパートは、パパ・ブッシュ大統領でその後も政党は違えど軍産複合体のクリントン政権、息子ブッシュ政権と続くのだった。

いまだに国民が誤解するように宣伝(プロパガンダ)される、「終身雇用」や「年功序列」という日本的経営とは、たかが戦後にできたシステムであったのを、いかにも歴史的悪弊として排除の対象としたのは、そうすれば日本企業のパワーが減衰するからである。

これぞ、相手国の文化性を利用した悪意ある外交だといわずしてなんというべきか?
しかし、肉食の男性国家はこれを常識として実行するものなのである。

鯖田氏は、「戦後日本の女性的個体への復帰は、世界や国家に対する無関心とうらはらです。とても開放状況を生き抜けません」と60年前の1964年(昭和39年)に書いている。
ようは、家族万能意識から抜けられない日本人は、狭い範囲としての家族(身近な集団)にしか興味が向かない女性特有の性格をもっているからなのだ。

政治と国民の分離もまた、この女性国家の特徴で、政治はアメリカとの関係維持に汲汲としているが、国民は知ったことじゃないという現状は、まさにここにある通りだ。
ところが、西ヨーロッパ・アメリカ(民主党)が、みずからLGBTQをいいだして、なんと男性から女性になりたがる傾向を示しだしたのだ。

それでか、西ヨーロッパ・アメリカに、神社が建立されて、「信者」を集めている。
なんと、挙式をするひとたちに人気なのだという。

これは、キリスト教(伝統秩序)への絶望からか?
それで置いてきぼりになった(古い)男性の立場から、日本(差別の対象となる人種)が宗教的に世界征服をはじめた、というひとが西ヨーロッパにいるのである。

しかしながら、西ヨーロッパは決して国家意識や世界意識を棄てたわけではないので、元男性としての「元」が残る。
それが、EU議会選挙での「極右」の躍進だったし、西ヨーロッパにおける「極右」の台頭となってあらわれているのに、日本ではそんなムーヴメントはぜんぜんない理由だろう。

英国でさえも、得票率(数)でまさった「極右」が、初めての選挙で5議席を得たのは、まだ「男がいる」証左なのである。

そんなわけで、鯖田氏は「女性-日本らしく、なしくずし的に国家意識や世界意識をもつくふうはないものでしょうか。」としたためて筆を置いたのである。

たしかに、難問である。

それだけに、いまの閉塞感と衰退の原因の深さがわかる。
しかし、鯖田氏が批判する、明治政府が利用して成功した「家族万能意識」を、合気道的に利用する手があるのではないか?

逆手を基本とする「柔道・柔術」は、この意味で男性であって、順手を基本とする「合気道」こそが、日本=女性としての「なしくずし」があるからである。

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