人間の個体が集まってできている「社会」は、なんとなく存在しているようでそうではなく、なにかの意思をもっているかのように見えるのは、前に書いた『こっくりさん』のような、力学がはたらくからである。
つまり、個々人のなんとなくある意識(「潜在」であろうが「顕在」であろうが)が、社会の雰囲気を創り出して、それを嗅ぎ取ったリーダーたちが乗じることで権力をえて、得た権力を行使するから、さいしょの「なんとなく」が具現化されるのである。
これの尖鋭化が、ポピュリズムだ。
だからある特定の思想をもったひとたちは、おカネをもっているひとたちと組んで、その「なんとなく」を醸成するように、プロパガンダに努めて、薄くともかまわないなんとなくをつくりだす。
それで満願成就したかになって、これをむかしは「天下をとった」ようにいったものだが、ちゃんと歴史上にも「三日天下」があるように、うわついたなんとなくだけでは心許ないのが人間社会の「浮世」というものだ。
だから、民主主義は大衆社会になればなるほど、ポピュリズムに堕ちることになっている。
リーダーすらも、大衆から選ばれるからで、大衆から賢人を得るのはたいへん困難になる。
なぜなら、愚を好む大衆は賢人を異物として認識し、嫉妬をもって憎むからである。
そんなわけで、大衆社会が発達して、高度大衆社会になると、大衆のなかの愚かさの自重が無限大になって、恒星でいう「超新星爆発」のような破局をおこすのである。
たかが会社でも、あるいは盤石な大企業でも、トップや経営層の一新による、「世代交代」が原因で、まさに浮世での不沈はあるものだ。
たとえば、コンビニの巨人にして勇者、「セブンイレブン」の経営がおかしくなっている。
「老害」として、創業からの大功労者、鈴木敏文氏が辞めるに至った経緯をよくみれば見えてくるというものだ。
もちろん、フランチャージーとフランチャイズの軋轢は前からあった。
だが、肝心の利用客に対する商品づくりという点で、鈴木氏には哲学があった。
その哲学を、切り捨てたのが新経営陣だったとかんがえられる。
いまや、ひとり負けの状態になったのは、あらゆる商売に通じる「事例」として参考になる。
これ以上にドラスティックなのは、環境ファシズムにまで発展した「虹色主義」の崩壊が予想できるようになってきたことである。
それもこれも、人々が正気を取り戻しつつあるからで、今度は「なんとなく」ではなくて、かなり意識的な点がこれまでとおおきくちがっている。
ヨーロッパを「世界」と呼んだ100年前までともちがって、いま「世界」といえば、地球上のこと、をイメージするように慣らされた。
それもこれも、「環境ファシズム=グローバリズム」が浸透したおかげであるけど、意図せざる結果として、別にいえば、ブーメンランとなって重くなった自重のごとく、しかも大衆からの反撃が激しいのである。
もしや、カリフォルニア州、ニューヨーク州、イリノイ州といった、虹色主義の本部とも言える牙城すら陥落するのではないか?
人々の意思が、これらを推進した勢力に対しての「怒り」に変換されているからである。
すると、行き場を失った虹色主義のひとたちは、わが国に理想郷を求めてやってくるかもしれない。
よろこんで迎え入れようという、自・公民と立憲民主、それに維新やらは、どこまで議席を減らすのか?なのだが、自己犠牲の石破自民は、一人負けをもって、なんとかこれらの仲間たちを助けようとしているのである。
これを健気という気もしない。