本稿は『フィデリオ』で書いたことの繰り返しだとあらかじめ書いておく。
それで今回は、5月30日から6月5日まで上映の、『フィガロの結婚』である。
作品に関係なく、冒頭からMET(メトロポリタンオペラ)はやらかしてくれた。
なんと、開演前に出演者が総出して観客とが、「ウクライナ国家」の斉唱をした場面からはじまった。
テロップには、「ウクライナ全面支援のおことわり」が表示されたのである。
撮影された客席は、ほぼ全員が起立して歌っているのである。
このおぞましい光景を見せつけられて、いきなり鑑賞の気分が削がれたのはもちろん、気分が悪くなったのである。
事ここに至ってなお、和平への努力をしないでロシア領への攻撃をしたウクライナの戦争屋の手先たちを支援するとは、とにかく戦争の継続を画策している態度に唖然とする。
国歌を斉唱するなら、「アメリカ国家」でなくてはならないのではないか?
なにしろ、世界都市ニューヨークなのだから。
しかし、グローバル全体主義=民主党の庇護者たちがスポンサーの劇場だから、きっと彼らの「意向」に逆らえないにちがいない。
その彼らとは、もちろん「戦争屋」のことである。
「映画公演:HD(High Definition:高解像度映像)」の公式スポンサーは、「ブルームバーグ」と「ROLEX」それに、「Neubauer Family Foundation」なる慈善団体だが、おおくの民主党系寄付者からの支えが、とうとう政治的ににっちもさっちもいかなくなったにちがいない。
とにかく自分たちの利益のために、現地人が何人死のうが関係なく、この劇場で「オペラ」にうつつをぬかそうというやからたちなのだ。
自分がこのような不道徳なものたちと同じだということに唖然とする。
共犯者のようで、気分が悪くなったのである。
ハーバード大学へのトランプ政権による「弾圧」の原因について、伊藤貫氏が明確に「偽善」だと述べている。
トランプ政権のことではなく、ハーバードを乗っ取った民主党員たちを「偽善者」と呼んでいるのである。
本音には、自分たちほど頭のいいものは世界にいないという思い上がりの裏返しだと分析してる。
もっともな主張である。
それで、日本の国立大学が、アメリカから追放された留学生を「無償=税金と自主的稼ぎ」で受け入れようという「偽善」を発表したが、おそらく「受け皿」として本人たちから認知もされていないことに気づかない間抜けさがある。
日本国内で、自分たちほど頭がいいものはいない、という思いがりが、なんと肩透かしをくらって滑っている「ざまぁ」がある現実に、日本の大学教授たちは何をおもうのか?
政治的立場をハッキリさせるのは、潔い、かもしれないが、それを観客に押し付けないでもらいたい。
本作、『フィガロの結婚』の主役、フィガロは例に漏れず黒人歌手だった。
前作の、『フィデリオ』に出演した上海出身の歌手も本作に登場したのは、「アカデミー賞」選考基準の準用なのか?それとも別の政治的意図があってのことか?といらぬ興味がわくのである。
なんにせよ、『魔笛』をつくったコンビによるこのオペラの反骨は、「初夜権」への反発が基礎にある。
まさに、「肉食の思想」が具現された、ローマ皇帝やら封建領主の「法的権限」であったものを風刺しているのである。
つまるところ、民主党的な「反キリスト教」からしたら、やけに「保守的」な演目なのだ。
もっとも、モーツァルトはフリーメーソンだった。
だが、幕間における「次作予告」は、あの問題作『サロメ』の新演出だ。
虐待を受けてから異常性愛へと変貌するサロメの狂気こそ、社会主義者オスカー・ワイルドの原作にしていまのMETにふさわしいだろう。
そんな作品を観るのは、こちらから御免被るのである。
ディズニーすら、SDGsやらのアジェンダから離脱したのに、METはまさにサロメのごとく異常な行動をひた走っている。
今シーズンは、『サロメ』の次に、『フィガロの結婚』の前作にあたる『セヴィリアの理髪師』で締める。
予告によれば、なんだか「古風」にして「正統」なのは、政治アジェンダの頂点を『サロメ』に置いているからかもしれないと邪推する。
発表されている『セヴィリアの理髪師』の「フィガロ役」はおろか、全員が「白人歌手」のようだからである。
しょせん、オペラはヨーロッパ白人社会の支配者=王侯貴族の暇つぶしにつくられ上演されてきたもので、徐々に一般人(紳士淑女)にも席が開放されたものだ。
はなから日本の芸能とはぜんぜんちがう。
もちろん、王侯貴族の暇つぶしから「近代オリンピック」すら生まれたのだ。
さてそれで、『セヴィリアの理髪師』がどんな「進化」を遂げたものか、また文句を書くチャンスがあるかもしれない。