36年ぶりのメトロポリタンオペラ『アイーダ』の新演出についてはこないだ書いた。
この物語の結末は、生きたまま墓に閉じ込められる、というものだが、アイーダが歌う歌詞に「私たちは地上でのことはもう終わった」とある。
ピラミッドが王の墓だという一般の説が否定されつつあるいま、1955年のアメリカ映画『ピラミッド(原題:Land of the Pharaohs)』が懐かしい。
わたしには、この映画のラストと、アイーダが重なるのである。
ときに、「監獄」についての深い考察は、ミシェル・フーコーが残している。
監獄から刑務所になって、なにがちがうのか?という問題も、ふだんかんがえることはない。
無料で見学できる博物館は、いがいとたくさんあるものだが、東京神田駿河台の明治大学にある「明治大学博物館」には、刑事部門がある。
また、東京小伝馬町の中央区立十思公園には、「伝馬町牢獄跡」らしく資料も展示されている。
100万都市江戸の牢獄は、あらかた300~400人の収容で、おおいときは900人に達したというけれど、いまからしたらずいぶんと少ないようにおもえる。
これには、労役をさせた「人足寄場」と未決囚の伝馬町との区分があったからという。
なお、「勘当制度」があった江戸時代、勘当されると「無宿者」扱いとなって、人足寄場に送られたので、存外にいまより範囲の広い人が罪人扱いされていたことになる。
それでも、これだけの規模で済んだのは、やっぱり犯罪者が少なかったからなのか?
お仕置きが厳しいので抑止力となっていたのか?
時代がはるかに現代に近い昭和の初めを舞台にした、『夫婦善哉』における若旦那が「勘当」される破局までの時間は、江戸期よりもずいぶんと長かったにちがいないけれども、もう人足寄場に送られることもない余裕が、大正期から昭和はじめのデカダンスなのである。
「2.26」から約3ヶ月後に、「阿部定事件」が起きている。
さてそれで、DOGEが暴く役所の不正から、権力者たちの蓄財における不正にまで話が進んできている。
方法は、マネロンだけでなくペロシが筆頭のインサイダー取引とか、バイデン親子の外国政府との取引など様々だ。
刑法が適用されるのか?軍法が適用されるのか?の二パターンがアメリカにはある。
もちろん、死刑を含めて厳しいのが軍法だ。
刑法でも、重罪がいくつもあれば刑期が加算されて、ときに数百年の禁固という判決もある。
事実上、生きて釈放されることはない、という刑期設定である。
すると、まさに生きたまま墓に入ることとおなじなのだ。
そうやって、収監されてしまえば、シャバの一般人の記憶から消えていく。
本人に対しても、一般人に対しても、情報の遮断が行われるのである。
36年前からの『アイーダ』の旧演出では、神殿に安置されている武具を選ばれし若き将軍に晴れやかに着付けるシーンから、裏切りへの判決後、また地上の神殿に返却されるシーンが幽閉された墓場のシーンと同時に展開する迫力があった。
新演出では、このシーンでの地上での表現が甘いと言えば甘かった。
これは、「次」のため、すなわちこの武具を身につける将軍とは、国にとって「使い捨て」だというメッセージなのである。
じつは、民主主義における「選ばれし者」とは、冷酷な国民による「使い捨て」の対象なのである。
そして、たとえば栄華を極めたはずの、バイデン一家や、国家序列ナンバー3にまでなったペロシにやってくるだろう、資産の没収と身柄の永遠なる隔離もまた、「驕れるものは久しからず、盛者必衰の理」なのである。
いやもしも、そのような牢獄に彼等がじっさいに入ることがなくとも、その犯罪行為を「歴史」に書き込まれたら、彼等は永遠に「恥辱」という監獄に入ることとなる。
千年ほど前にこれに気づいた日本人の先進性を自慢したいが、いまの政府高官たちの「驕り」は、とうてい『平家物語』すら理解不能な輩たちによる狂宴となっている。
だから、このところの「アメリカ株の下落」は、一般人が購入するチャンスだというメッセージなのだと思考すれば、なんの問題もないかえって歓迎すべき事態なのであるし、石破首相の度を超えた驚愕的な「鈍感さ」と「無知」によって、年度内に通ったはずの予算案が通らない事態となった。
衆議院を通過したのに、参議院での修正によって、再び衆議院での可決が必要になったため、日程上「年度内」が不可能となったのである。
これで、国民を裏切った維新も一緒に追い詰められて、墓場に幽閉されることが決まったようなものとなったのは、筋悪の末路して当然ではある。
内閣総辞職か、予想通りの春解散か?という選択となって追い詰められているのも、使い捨てなのだという道理による。
ただし、石破氏は昨年暮れに、「予算案が通らなければ総選挙をやる」と発言したから、有言実行なのか?それともいつも通りの言っただけなのか?も問われるのである。
どちらにせよ、本人たちは、使い捨てなのだという原則に気づいていないだろうけれど。