文豪がその実力を発揮するのは、「短編」にあるといわれる。
その究極が、日本の「俳句」だともいえるので、長編小説で売れた夏目漱石が俳人になったのも頷けるのである。
江戸の商人たちが、「連歌」を趣味として夜な夜な会合していたのも、ラジオやテレビがない時代だからこその「教養遊び」で、そこに「狂歌」のエッセンスを加えたら、それこそ即興による粋な楽しさ満開であったろう。
なので、十返舎一九の旅行ガイドにして大ベストセラー『東海道中膝栗毛』でのお決まり、「ここで一句」が挿入されているのは、文化的な高度さの証拠なのである。
いまの旅行ガイドに、「ここで一句」を示しても、読者が理解できない恨みがあるのは、ラジオとテレビに破壊された感性の退化の証拠になっている。
SFの大家のひとりが、アイザック・アシモフである。
このひとはその名前のとおりユダヤ人だが、生まれは「ソ連」で3歳のときにアメリカ・ニューヨークに移住している。
これだけでどんな複雑な人生なのだろうと思わせるが、こんな複雑な経歴のひとが山のようにいるのがあちらだから、海によって隔絶されることができていた日本人の幸せ度は、生まれながらにしてのアドバンテージであることにちがいはない。
長じてその後、生化学者となり、ボストン大学の教授職にもなるが、作家としての名声の方が高くなる。
1958年に発表された『停滞空間』は、短編にして傑作との評価が高い作品である。
その作品集に『最後の質問』という、これまた傑作がある。
これらは是非とも本文を味わってもらうことにして、そのまま題名だけでいまの世界やわが国の状況をいえるのが、後出しじゃんけんにしても偶然なのだろうか?と疑いたくなるのである。
8日の自民党の両院議員総会が、まさに「停滞空間」そのもので、秋の臨時国会までの停滞が決定した。
目を覚ますような「最後の質問」とはなにか?をかんがえたくなる。
底知れぬ社会的なエネルギーの蓄積がはじまっているのは、妙にフランス革命前夜のような気分がする。
そのためか、フランスではふたたび、あの伝説の日本アニメ『ベルサイユのばら』がリバイバル・ヒットしているらしい。
この作品を産んだ戦後急速に経済成長した日本が、黙っていても成長する、という神話が壊れた。
「貧困化」という逆転が、現実になって、中学校の数よりも「子供食堂」が多くなったのである。
さてそれで、子供食堂への直接支援をしようという自民党と、子供が町の食堂で食べられるクーポンを配布すべきという「最後の質問」が議論をよんでいる。
タッカー・カールソンは、そんな日本の凋落原因が、アメリカ(グローバル全体主義)とその僕たる日銀が仕組んだものだとインタビューで証明しているが、その内容が日本で報道されることがない停滞空間をマスコミがつくっている。