ダメ女将が仕切る店のダメさ

基本的に個人経営の店にみられる現象である。

料理人のご亭主による料理の味はたいていの場合、悪くないという特徴も共通してあるものだ。
これもダメなら、店の存続は絶望的だ。

なので、どん事情でふたりが一緒になったのか?がわからないという、余計なお世話になる。

もしや婿養子なのかもしれないと勝手に想像を膨らませるのは、やっぱり女将さんの接客がぜんぜんなっちゃいないからで、本当は店に出るのが嫌いで仕方ないのかと思われる。

しかし、女将さんがそんな血筋なら、ふつうは母親たる大女将の背中を見て育ったはずである。
だから、大女将は直接具体的指導をせずとも、自分の娘なのだから接客がふつうにできるはずだとして放置したのかもしれない。

とはいえ、現場を見学すればどうにもならない接客は一目瞭然のはずだから、なぜにその都度指導をしなかったのか?とまた疑問が膨らむのである。

花登筺の『細うで繁盛記』では、主人公の加代が育った家が、祖母の一代で大阪は難波の超一流料亭を創ったことに設定されていて、一人息子の長男の嫁には同業から娶ったとある。

しかし、この同業者は、住宅を高級住宅地に定めたために、母たる現職の女将とは別の空間で育ったので、接客業には向かない嫁だったともキャラクター設定されているのである。

それを見切った祖母は、加代を可愛がってあたかも英才教育を施したようになっている。

少女の加代が学んだのは、祖母の経営哲学であり、客の心理学であった。
この物語の哲学とは、繊維問屋で栄た「船場商人」のもので、元を糺せば「近江商人道」のことである。

これを最上位概念の「戦略」として、接客における心理学を「戦術」として展開・応用することでの『繁盛記』なのである。

困ったことに、接客業をしていたらゆっくりテレビを観る間もないから、こんな典型的な「接客研修教材」を放っておく手はないのに、家庭用ビデオデッキが発売される前の時代の放送だったので、電波とともに消え去ってしまった。

ところが、客側たる一般人が観ていて、記憶に焼きつけたのである。

そんなわけで、今でもたまに当たる女将によって接客が崩壊している店を体験すると、自分が漫画の中に入り込んだような気がしてしまうのである。

そこで展開される場面は、女将本人がなんら向上心を持ち合わせないことの不思議空間が醸し出すなんともいえない重く澱んだ空気で満たされているのである。

ただし、調理場にいて顔が見えないご主人が作る料理は、旨い。

ありきたりだが、飲食店で客が買っているのは料理そのものだけではないことを客が実感できる店となっている。

それゆえに、滅多に足を運ばないが、腹を満たすだけ、という割きりならば時と場合によって選択肢の端っこに位置するだけの存在ではある。

ただし、せっかく足を運んだのに閉店・終業のリスクがあることの覚悟がいるのだった。

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