『西洋の敗北』は、エマニュエル・トッドによる2024年の書籍で、『西洋の没落』は、シュペングラーによる1918年(上巻)と1922年(下巻)の書籍である。
この二作品は、ザッと100年の時を超えて、ザックリ別方向からおなじことを書いているのだが、著者はどちらも「歴史家」だという共通に注目してよかろう。
「歴史は繰り返す」を格言として記憶していても、それを論じることの深さは凡人にはできないことである。
それは、政治学者や経済学者のいう浅いレベルともまったくことなるので、読む価値がある、からお薦めしたい。
現在では、エマニュエル・トッドのことを「予言者」と評する無責任なファンもいるらしいが、歴史家の本分からしたら迷惑な呼ばれ方にちがいない。
凡人があたかも「予言者」だと断じるのは、歴史家の思考範囲が哲学に及ぶからの必然であって、けっして占い師や予言者ではないのである。
しかして、かくなる思考が、結果として未来をいいあてる。
その「あたり方」が、ズバリ!だから、予言者という評価になるだけのことなのである。
つまり、エマニュエル・トッドもシュペングラーも、霊感商法をやっているのではない。
日本人からみたらこのふたりはヨーロッパ人である。
しかし、トッドは現代のフランス人で、シュペングラーはドイツ帝国のひとであった。
独・仏の関係のきな臭さとややこしさは、海で隔たる島国日本の歴史とは比較にならない。
そんなふたりが、100年の時間を超えて、西洋のズブズブで一致している。
ところが、現代日本人にとっての西洋はあくまでも、「米・英・仏・独」といったいわゆる「欧米」を思い浮かべるのだが、シュペングラーの時代からずっとグローバル化した現代では、日本も韓国も西洋とするのがトッド流の思考なのである。
つまり、トッドの『西洋の敗北』とは、日本や韓国が含まれたうえでのはなしになっていることに十分な注意を要するのである。
そして、彼らの「西洋」に、ロシアが含まれていないことも、現代的には十分に重要なことなのである。
彼の特徴に、家族形態から政治志向を読みとることがある。
西洋は核家族からの個人主義を、ロシアは大家族主義からの権威主義を志向するという視点は、われわれ日本人がかつてはロシアに近かったことを想起させる。
それをGHQによって、「民法」から破壊され、とうとう昨今の完全なる西洋化を果たしたのである。
ようは、敗者(ウクライナ=西洋)に対する勝者とは、ロシアのことであることが本旨となっている。
そのウクライナを例にして、プーチンのロシアは早い段階で西洋に見切りをつけ、自国の金融システムを中心に、将来の経済制裁に備えるための時間稼ぎをしていた。
このことは、西洋の金融従事者幹部なら衆知のことのはずが、なぜか「 SWIFT:Society for Worldwide Interbank Financial Telecommunication:実態はベルギーにある協同組合)」からロシアの銀行を外すだけでの経済制裁が有効だと信じられていた妙がある。
そればかりか、西洋はロシアを制裁するといいながら、自国経済を制裁してしまった。
この典型が、トッド氏の母国フランスで、マクロンの迷走が不況を呼び、アフリカ植民地からの収奪でも間に合わない慢性的な政府赤字による貧富の差が拡大し、それがマリーヌ・ル・ペンの台頭となったのだし、ドイツもロシアからのガス供給が絶えるエネルギー危機からの絶望的産業衰退がAfD台頭の原因となったのである。
ようは、身から出た錆、なのである。
そのドイツのデュッセルドルフがある州議会選挙で、AfD候補者が相次いで7名も亡くなるという奇妙な事態になって、選挙そのものの実施が危ぶまれる前代未聞がおきている。
しかして、西洋に与した日本も、これから多額の復興支援を負担することとなる。
まさか、国内同様に、巨大公共事業によるキックバックを期待している政治家が仕込んだとかんがえたくはないが、その上に、本場西洋の貪欲な者たちがよだれを流しているにちがいない。
そうやって、日本国民の生活と政治家やらの支配層の分離で、とうとう民主主義は、一般人の生活をかえりみない者共に権力を奪われて、とうとう大衆が反逆するというオルテガの予言通りが世界トレンドとなったのである。
むかしのような豊かな未来をえがける生活をしたい。
これが、いま日本でも起きている大衆化した自民党政治家と本物の大衆との軋轢になっている。
「石破やめろ」と「石破やめるな」の対立こそ、西洋にすっかり変身しきった日本の没落の象徴的できごとなのである。
しかして、一度破壊された文化はもとに戻ることはない。