パリについての文章で旅したつもりに

史上最低だろうが、視聴率がとれなくてテレビ局が赤字になろうが、わたしはパリに行ったことがない。

フランスに入境したのは、約40年前にイタリアからシャモニーに踏み込んだのと、ベルギービールを飲みにベルギーへいくときに、シャルルドゴール空港に降りて、そのまま新幹線でベルギーに入境しようとした。

あいにく、目的地のブリュージュに直行する列車が出発したあとで、リールからローカル線に乗り換えることとなった。

それがまた、東京駅と上野駅とまではいわないが、駅が離れていて、街中を徒歩で通過するはめになった。

このときのリールの街の荒廃ぶりは、なんだか日本の暗い未来感があったのである。
エジプト・カイロの雑踏を思い起こさせたからである。

それで、レンタカーでベルギーとフランスの国境の村(ベルギーでは珍しくブドウ畑があってワインを作っている)に行き、そこの幅1mほどの小川がフランス国境だったので、散策のためのかわいい橋を渡って再度フランスへ入り、ものの数分後にベルギーに戻った。

帰国も、またシャルルドゴール空港からだったので、フランスには都合4度行ったことにはなっている。

いっとき、猫も杓子もおフランスのパリをめざすブームがあった。

パリが、「花の都」といわれた時代だが、いつだって「フランス革命」(1789年から1795年:日本では「寛政の改革時代」)の後のことだから、どうせロクでもないとおもうが、芸術家でパリを知らずにはいられないほど、フランスに余裕があった時期のことではある。

もちろんその余裕は、アフリカ支配からのものだったのは言うまでもない。

そんなわけで、100年ぶり3度目のパリ・オリンピックというものいいから、最初が1900年(明治33年)、2度目が、1924年(大正13年)なので、2度目の3年前から『新小説』に連載された、島崎藤村のパリ滞在記『エトランゼエ』を読んでみることにした。

なお、藤村が神戸発のエルネスト・シモン号に乗船したのは、1913年(大正2年)のことで、御年42歳のことであった。
ちなみに、翌1914年から18年まで、ヨーロッパは、第一次世界大戦となるので、藤村はきな臭い中に飛び込んだことになっている。

わたしにとって、藤村といえば、中学1年のときに読んだ『破戒』が初で、意外にも、『初恋』は暗誦している。

『夜明け前』や『家』といった、暗めの話しは、わたしの中ではなんだかしらないが信州という共通の舞台がある横溝正史のドロドロにつながっていて、その理由が、藤村と姪(こま子)とのドロドロがあったのだとわかったときに妙に納得したのである。

もちろん、戦争の匂いがするのに出国したのは、姪のこま子を妊娠させたことからの逃避だった。

それでも1916年(大正5年)に帰国すると、やけのやんぱちかどうかはしらないが『新生』を書いて、この不倫を自ら暴露する。
はたしてこれが「自然主義文学」なのか?と、批判されるのは、なんでもかんでも赤裸々に描けばいいってものではないだろう、ということである。

わたしには、橋田壽賀子の『おしん』の米問屋を破産させた、「婿」が藤村と重なるけれど、入水して自決した婿の潔癖さも藤村にないから、近くにいたら実に困った御仁だとおもうのである。

この手のドロドロは、あの手塚治虫も得意?としていて、『アポロの歌』(1970年)では、神奈川県が「有害図書指定」するほどで、その後の『奇子』(1972年)は、作家に続編の執筆意欲があってもあまりのことに絶筆となっている。

これは、人間の性なのか?はたまた、縄文以来の日本人特有の「おおらかさ」なのか?
しかしながら、『アポロの歌』をどうして神奈川県が有害図書指定したのか?よくわからない。

ゲノムからクローン、はたまた、「月桂冠」の由来である、ギリシャ神話(アポロとダフネとの悲愛)、それに『火の鳥』をイメージする輪廻転生のなかにあるひとつの「地獄」が、あたかも『ファウスト』のように描かれていて、もしや神奈川県のお役人たちはこの話についていけなかったのではないかとおもわれる。

なんにせよ、そんなグダグダな事情の藤村がパリに暮らした記録は、どんなものか。

当時のパリ自体が語る街の風景と、そんな日本人作家の語ることを交えて、「行ったつもり」になるのである。

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