ボーイングにみる大企業の凋落

べつに、「ボーイング」でなくともよい話なのではあるが、あんがいとタイムリーなのでこの企業の名前を出す。

産業国家・アメリカで最大の航空機メーカーといえば、そのまま「世界最大」といって差し支えない。
かつては、産業国家・日本最大の家電メーカーといえば、そのまま「世界最大」だったことと同様である。

だから、たとえば、「松下電器」を挙げてもいい。

「凋落」という本稿のタイトルにも合致するのは、「ナショナル」の後からつけた統一ブランド、「パナソニック」を維持できずにとうとうやめるまでの凋落があるからで、その第一の戦犯が「テレビ事業部」の兆円単位の赤字であったことすら「何をいまさら」なのである。

しかして、漫然と官僚化した企業組織(新入社員の採用に「優秀な人材」を求めた挙げ句の結果)は、ついに慣性の法則が働いて、その組織内でしか通じないローカル・ルールがあたかも金科玉条の犯さざる最高度の内部規定にまで変容すると、外部からは容易にみえることも、ぜんぜん自己管理できない状態になるのである。

わたしはこれを、「こっくりさん」経営(マネジメント)と呼んでいる。

ただし、わが国の場合には、産業破壊を目論む経産省という特殊な役所が跋扈しているのだが、本稿ではふれない。
この役所に就職するひとちが相対的に優秀なほど、わが国は衰退の度合いを高めるのである。

もちろん、「天下の松下電器」の人事部の優秀さは、そこにいるひとたちが自覚していたはずでもあるから、学生をみる目線が高圧的であったろうし、それもまた需要と供給の原則に従えば、つまり、社員の側の安全地帯にいる「勝ち組」意識と、学生の側の「ハラハラ」意識とがぶつかれば、社員の側が圧倒的に有利であったことは、どこの企業もおなじなのである。

しかし、不思議なことに文系人には、何事も定義をしない、という習性がある。

だから、自社における優秀な人材とはどんな人物像なのか?をあらかじめ決めることがない。
それで、応募人数が多数ともなれば、優秀さを自覚する社員は「ペーパーテスト」による試験結果の順位をもって決めることが、「公平・公正」でかつ「効率的」だという3Kをもってするのが常識になるのである。

なんのことはない、高校や大学受験の延長にすぎない。

しかし、自分もそうやってチョイスされたのだから、自身が人事の採用担当になれば、この方式になんの疑問も抱かないのである。

けだし、こうしたことを再考させるトップもいない社内官僚支配の状態がそもそもの元凶なのだが、これをガルブレイスは1968年(昭和43年)に『新しい産業国家』として当時、飛ぶ鳥を落とす勢いの日本企業を中心とした企業(文化)研究の著作を発表している。

つまるところ、半世紀以上前に指摘されたことの「結果」が今・現在の事象になっていることだから、いかに自慢の優秀さを誇る大企業も、自己改革することの困難と破滅的でムダな努力が「有給」の業務として延々と継続されてきたかがわかるのである。

さてそれで、ボーイングである。

いま、破産の危機にあるとまでいわれているのは、パナソニックが大成功し成長の原動力そのものがテレビ事業であったがゆえに、損切りできずにズルズルとこだわったのとは異なる、新規事業としての「宇宙分野」における失敗が致命的になるかもしれないことにある。

この意味では、東芝が致命傷を負った原子力事業での失敗に似ているけれど、それもこれも、世界最大の「宇宙開発事業団=NASA」による、開発補助金のコントロール下における開発失敗という、なんだか「三菱Jetと経産省」のような話なのである。

みえる話でいえば、18日、イーロン・マスク氏の「スペースX社」による、8日間のミッションだったはずが9ヶ月間も放置された2名の宇宙飛行士救出・帰還作戦の成功である。
「事件」の発端は、この2名を宇宙ステーションへ運んだボーイングのロケットに不具合が見つかって、行ったはいいが帰還できなくなったことにある。

それで、不具合改善にもたつき迎えにいくロケットの準備もできないボーイングに、開発競争で目下にみられたスペースX社が手を挙げたが、なんと、バイデン政権はトランプ氏と懇意のイーロン・マスク氏の手柄がそのままトランプ氏の大統領選挙に有利になるとして、あろうことか発注すらせずに生きた人間の男女2人を宇宙に放置したのである。

なんだか、『アイーダ』より酷い絶望を宇宙飛行士に強いたのである。

地上の政争を宇宙に持ち込んだ民主党・バイデン政権は、ほとんど殺人未遂をしてまで権力保持のいらぬ努力をしていたのである。

本件で、ボーイング社はトランプ政権2.0になったNASAからの補助金が全額カットされることとなり、いまや自力でのロケット開発を継続するのか?撤退するのか?の岐路にある。
しかし、主力の旅客機の分野でも開発の遅れが目立ち、その巨大さゆえの身動きが緩慢なのは、もはや社内文化レベルの問題にまでなっているのである。

まさに、慣性の法則による経営が、いよいよ末期症状をみせているのである。

人間のことでたとえたら、「多臓器不全」での危篤状態である。

株主たちが気がついて経営者を交代させたが、時間を掛けてできあがった社内文化にまでなった「垢」をすぐさまそぎ落とすには、周到な準備がないといけないために、「時間との競争」になっているのである。

ここに、経営資源としてもっとも基本的でかつ忘れられがちな「時間=金利」の問題がさし迫っていることが明らかになって、誰にでもわかる「経営危機」となってみえてきたのである。

アメリカならまだ、ボーイングの事例研究がそのまま「経営学」の教科書になろうけれども、わが国の残念は、パナソニックの事例研究やら、三菱重工に東芝や日産などがそのまま「経営学」の教科書にならないのは、「国=経産省」への忖度が学者にあるからだろう。

とにかく、国に逆らって研究費がもらえなくなる恐怖でなにもできない、という堕落の仕組みが文科省と学術会議にあるからである。

つまり、わが国の「優秀な大学」でも、まともな経営学を修得することは困難で、ゆえに、優秀な人材の定義も、独自に構築できる大企業は少ないだろうし、その大学も、優秀な学生ばかりか教員だって選択・採用できないような制度になっている。

ようは、日・米ともに、教育から産業界までに「多臓器不全」が蔓延しているのである。

それで、トランプ政権2.0が連邦教育省の廃止に踏み込んだのは、原因のひとつの外科的除去といえるが、やはり効果がでるには時間がかかる。
そのために、大統領令だけでなく、「設置法」での廃止を議決するように議会に求めているのである。

「時間」に対しての早い者勝ち、という状況をつくったことは確かなのである。

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