人事のドライな文化

むかしからいわれていることであるが、主に、「人事」は日・米の文化比較のテーマである。

日本人の「血」のなかには、「組織とそのトップへの忠誠心」が根強く残っているので、それが希薄で(個人主義の徹底ゆえに)ドライなアメリカ人の発想に、明治以来の日本人は違和感を持ち続けてきたといえる。

感情でコントロールすることが第一ではないために、アメリカ人は「組織」でコントロールする方法を科学的に研究し実施してきたのである。

日本でも、近年の「合理主義的(無機質)な学校教育」における、アメリカ式のドライな文化にすり替えようとする「国際化」なる綺麗事に熱心なあまり、日本文化や歴史についての教育を省くことがふつうになって、「組織とそのトップへの忠誠心」を育む場は、主に体育系「部活」あるいは地域の「クラブ活動」などの団体行動に集約されているとおもわれる。

生活空間における「平等の絶対主義蔓延」で、家父長の地位転落もあって縦系列構造の空間が消滅したので、「敬語」が狂いだした。
母と娘の理想的な関係像が、「親子」から、「友だち」に変化してフラット化したら、「友だち」が「トモダチ」になっているのである。

よって、こうした体育系「部活」などでの体験で子供は「敬語」を学ぶことになっている。

むろん、縦系文化が絶対の「犬社会」で、「平等」なる概念は発達のしようもないために、主従関係を構築できない「愛玩目的」の犬が、飼い主の指示に従わないのも、人間の側の犬への理解不足が原因となっているけれど、商業主義からの「優しさ」を商品とした、「ハーネス」が、命令コマンドを伝達するのに向いている「首輪」の機能性を無視して「売れている」ことの主因の理由付けとなっている。

個人的に若い世代との交流がなくなって久しいために、よくわからない、のであるけれど、たとえば、『忠臣蔵』をこうした世代の日本人がどのように捉えているのか?にひとつの典型を見出すことができるのではないか?

すると、仮説として、若い世代の日本人が、『忠臣蔵』をしらないか、しっていても理解できない、ので、感動もない、のではいか?とすると、「世代間ギャップ」による、組織内でのさまざまな軋轢・葛藤の原因になっている可能性の指標となるのでは?とかんがえることができる。

なんに関しても外国の優位さにはまり込んだら、それを「かぶれ」と評してきたのが日本人であった。
漢籍や漢学にはまり込んだら、「漢心(からごころ)」といっていたが、明治からは「西洋かぶれ」になった。

この意味で、思想にも適用できるために、「マルクスかぶれ」なるいい方もありなのである。

さてそれで、トランプ政権2.0の重鎮たるパム・ボンディ司法長官が解任されたことが話題になっているが、その前から、「この(イランとの緊張の)時期」にもかかわらずアメリカ軍の「将官」たちが大量に解任されていることがさほどの話題になっていないことが、話題、なのである。

しかして、トランプ政権2.0で「解任」された長官級の最初といえば、サウスダコタ州知事から国土安全保障省長官に抜擢起用された、クリスティー・ノーム女史であったけれども、不法移民対策=国外退去の実績を吹き飛ばす夫との「汚職」が噴出するありさまになって炎上している。

ボスによる、「お前は頸だ!=You’re fired!」のひとことで解雇できる文化と、いったん正社員採用されたらほぼ解雇の対象とはなり得ない日本の雇用文化のちがいは、絶壁、にひとしい。

しかし、これも、トランプ政権2.0の「仕込み」だったかもしれないと妄想したら、歴代民主党政権時代の「汚職」解明の「撒き餌」にもみえてくるのである。

ノーム夫婦の汚職疑惑「だけ」が問題なのではなく、「地ならし」の発想からしたら、燎原の火となって「焼き尽くす」ことを意図していないか?とおもうのも、『旧約聖書』による「神」による「まちがった信仰」に対する怒りの炎に通じるので、プロテスタントらしいといえる。

これもまた、ウエットな日本文化にはない、ドライ、ゆえのやり方なのであろう。

日本人なら、トップの「任命責任」がまっ先に攻撃されるが、あちらでは、個人主義による個人の問題にされる。
判断意思・能力のある「成人=おとな」の所業は、その本人のセルフコントロールを当然とするからであろう。

この点で、日本的な「任命責任追及」とは、本人を「子供あつかい」にしているので、子供の責任は「おとな=トップだけ」にあると発想するものだ。

それが嵩じて、小役人が民間(大企業)のトップにも株主でもないのに「箸の上げ下ろしにも小言を言う」に直結するのが許されるのである。

では、はたしてどちらが有利なのか?と単純な「二択」にならないのは、根が深い「(歴史・宗教もふくめた)文化性」まで吟味したうえでの判断になるからである。

残念ながら、この点で、現代日本人は「子供」になっているのである。

それを、「名刺交換の場」を用いた、お笑いコンビを起用したCMのモチーフにしているから、この「作品」の製作者は「おとな」なのであろうし、その製作者を起用したもっと「上」も同様だといえる。

日本人にも例外はたんといる、ということである。

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