「体育」の英訳は、「Physical education」だと『ジーニアス和英辞典第3版』にある。
しかし、「体育館」は、「gymnasium:略 gym」だし、「体育祭」は、「athletic festival」、「体育の日」は、「Health-Sports Day」なのである。
これで、「体育の日」を「スポーツの日」とアンチョコ訳したメチャクチャがわかるが、2024年から「国民体育大会:略 国体」が、「国民スポーツ大会:略 国スポ」となったのには唖然とする。
見事、といいたい自民党政治の浅はかさなのである。
その意味のちがいは、上に書いたように、かえって英語表記にするとよくわかるからである。
しかし、わが国の歴史をたどれば、「体育」だって、「洋物」であって、武士ではない一般人からの兵員育成の目的があったのだから、伝統的オリジナルは「武道」に相違ない。
江戸時代、「町道場」に町人も集めたのは、お取り潰しになった浪人の職業としてだけでなく、「流派」の研鑽があったからでもある。
日本人は、「武道の稽古」のことを、「練習」とはいわないし、そもそも「武道」を「スポーツ」だともかんがえなかった。
(敗)戦後になって、GHQのお達しで、武道全般が禁止になったのは、強すぎる日本軍の訓練に貢献していたことの反動だった。
ここで、「3S政策」が登場して、「スポーツ」に熱中させて愚民化を図る。
神社の興行だった「大相撲」もスポーツ化させて、当然だった八百長を認めないうわべを構築したのは、アメリカ製の「プロレス」との対比でかんがえると、酷い話なのである。
それに、日本女性は、武家につながる良家ほど武道の心得があるばかりか、日舞にも通じていたのは、その所作自体が武道からのものだったからである。
立ち方、歩き方、座り方を、作法通りにキッチリできるようになるには、かなりのインナーマッスルが鍛えられていないとできないことに気づくのである。
椅子での生活になったら、ほぼ全滅の状態になった。
むろん、インナーマッスルを通常のスポーツで鍛えることは難しいので、「和の生活習慣」のなかで自然に強くなることが科学的にわかってきた。
畳の生活とは、そういうものだったので、いまも日本橋に店を構える「小津和紙」の流れをくむ小津映画やらを生活記録として観れば、よくわかるのである。
昭和時代の後半から、生活が豊かになって西洋化し、それが永遠に継続すると思い込んだら、つぎは「健康」がブームになって絶えなくなった。
いわゆる「健康オタク」の登場である。
無意識に、非伝統的生活習慣で、不健康になると察したからではないかと想像する。
もっとも手軽な健康維持の手法に、「ウォーキング」がある。
朝も6時前後から、早起き自慢の高齢者たちがスニーカーを履いて歩いている。
それから、近所の公園での「ラジオ体操」に加わってから帰宅し、夏ならシャワーでも一浴びしてから朝食をとるのだろう。
しかし、これでほんとうに「健康」が維持できるか?、あるいは病弱から健康を取り戻すのか?についての検証を観たことも聞いたこともない。
医師やらの専門家による「推奨」だけを見聞きするばかりなのである。
コロナ禍で、医学は科学ではなく、政治的であるばかりか、場あたり的なのだとわかった。
いまだに一部の医療機関では、「マスク着用強制」があって、所持・着用していないと「10円」の不織布マスクを購入・着用させるところがある。
欧米がなんでもすばらしいとはいいたくないが、この件については、欧米の方がはるかに科学的で、「マスク信仰」はぜんぜんないのである。
ちなみに、コロナウィルスの直径は約100から200 nm(ナノメートル:10億分の1メートル:0.000001mm)だから、0.0001から0.0002mmということである。
不織布マスクの網目の大きさはおよそ0.005mm程度なので、ザッと50倍から25倍も編み目が大きい。
蚊やハエの進入を防ぐための網戸の網目が、蚊の50倍から25倍もあるなら、だれだって「無意味」と気づくだろうに。
だがむかしから、風邪引き患者がマスクをつける意味があるのは、自分がした咳などの飛沫を止めて他人に迷惑をかけないためであって、健康なひとが予防で着用する意味不明とはちがうのである。
「マスク信仰がない」とはいえ、欧米はキリスト教信仰そのものがなくなって、社会規範の崩壊が深刻になったから、イスラム教の移民に混乱させられているとはいえ、「十字軍」のような殺戮にはなっていない。
だがそんなイスラム教徒たちを、スペインを征服した歴史からみているのか?なんなのか?
ヨーロッパ(EU)の自虐は、とうとうロシア産ガスの「全面禁輸」を決めて、アメリカ産に依存するトランプ政権2.0への媚びをしているけど、エネルギー危機を自分たちから呼び込む姿は、「まともではない」とかんがえないところが、もうまともではない。
さてそれで、武道 ⇒ 体育 ⇒ スポーツ と堕落させることで、国民の健康(状態)だけでなく精神も堕落するから、公的健康保険の国家負担は増えるばかりで、減ることをしらない。
国技として「心・技・体」をいう、大相撲の看板も平気で無視するのが、国民に頭脳明晰だと信じ込ませている官僚の姿で、その官僚を育成する学校が「最高峰=超難関」だという、まともがないことになっている。
これは、そんな「最高峰」が支配する反社に近しくなった「医師会」やらの医療関係政治(圧力)団体とか、弁護士会とかによる、いまだけ、カネだけ、自分だけ、という無惨にも現出して、民間企業の経営にもまともにさせない努力となっている。
「体育:Physical education」は科目として「文科省」の管轄なのだが、当然に「厚労省」も連携しているし、あろうことか業界を優先させるためにある「消費者庁」も、「農林省」も、内閣府にある「食品安全委員会」も、「国民の健康」についての責任を放棄しているばかりか、欧米よりもユルユルの規制緩和に熱心なのである。
「医食同源」の思想はどこにもない。
そんなわけで、国民は、自己防衛をいまや「個体別」にするしかないことになっている。
「健康」を目指すなら、どうやら国や医師会らのいう逆を実行するのが、おおむね正解なのではないか?と疑っている昨今なのである。