むかしから、自民党から立候補した候補者が、「党内の内部改革」を約束して、達成できたことがないのに、この言い分の手口はなんども使われている「便利さ」がある。
わたしは、自分からやりたくもないのに中学校の生徒会長をやらされた。
これには複合的な理由があって、まず、わたしが「学区外」の小学校に通っていた(おなじ境遇はあと5人いた)ために、中学で顔がわかったのは、幼稚園時代の人脈しかないことだった。
これで、少数派の人間を誰もやりたがらない役に押しつけようという、子供ながらに激しい忌避運動となったのである。
一種の「ほめ殺し」で、顔も名前もしらない同学年生たちが、勝手にわたしの選挙運動をやっていたのである。
しかし、それから30数年後になって、これを裏からやらせていたのが「職員室」だったことを、同窓会の場で先生から告白されて唖然としたのである。
「お前は生徒会に売られたのだ」と。
しかして、「学校組織」というのは、教師と生徒と親(いまは「保護者」と呼ぶことを強制されている)の3者からなっていて、さらに教師側は、教育委員会とつながる管理職とその親派、日教組、それにノンポリの3者にわかれているが、旧日本軍がそうであったように、最大数の「ノンポリ」は、いつでも決定の場から排除されることになっている。
たまたま、親側のPTA会長も、わたしとおなじ小学校の仲がよかった同級生の父親になって(やっぱり押しつけられて)、なんだか知らないが境遇がおなじだからか、全面的に生徒会活動を予算的にも援助してくれた。
これが、3者協議会でのことだったので、以来、「職員室」の雰囲気が変わって、意外にも生徒会の発言力が一気に高まったのである。
それで、上に書いた告白しくれた先生は、ノンポリ側だったから、わたしのやり方を痛快だとみていたという。
ようは、わたしが、職員室の操り人形になると睨んで、選挙を裏から指導した側の期待を裏切ったというわけである。
つまり、これはこれで、ぜんぜん内部改革ではなく、PTAという外部から職員室という権力機構に圧力がかかったことの間接的な成果だった、一種のラッキーなのである。
さてそれで、トランプ政権2.0が仕掛けた、イーロン・マスクと ビベック・ラマスワミが2トップの『DOGE:Department of Government Efficiency:政府効率化省』とは、どうやら「閣外」らしいのである。
「Department」をふつう「省」と訳すから、あたらしい恒久的な役所としての「省」ができるかと思いきや、2トップのふたりも「無報酬のボランティア」で、どうやら建国250年(2026年7月4日)までの期限付き「臨時プロジェクト」だということが判明してきた。
わが国でいえば、政府の外に設置する、「臨調:臨時行政調査会」の強力版のことだ。
「恒久的」といえば、むかしは「行政管理庁」という役所があって、総理府の外局にして長官職は「大臣」だった。
中曽根康弘行政管理庁長官が、「土光臨調:第二次臨時行政調査会」をやるとして、気がつけば「総理」になっていた経緯がある。
なんだか、サッチャー、レーガンの二大巨頭にあやかって、総理になるために地味な行政管理庁長官になった「やらせ」なのではないかと疑いたくなるのは、わたしだけか?
それで、昭和の終わり、あの小説のタイトルとおなじ「1984年」に、総務省が誕生すると、「行政管理局・行政評価局」という、「庁」から「局」への縮小があって、いまみるように政府機構自体は拡大・膨張する意味深となったのである。
どっちみち、「行政管理庁」も、あらゆる役所から落ちこぼれのキャリア官僚が「出向」してくる寄せ集めで、自分の役所の管理をするという矛盾に充ちた適当さだったから、出向が明けて自分の出身省にもどって酷い目にあいたくない心理が作動し、はなからやる気も効果もない、これぞ「内部監査の甘さ」をもって、出世街道を驀進する同僚・同期の官僚たちから軽く観られていたのである。
似たような「役所」に、「人事院」と「会計検査院」がある。
これらも、中途半端な立ち位置で、政府部内なのか外部なのかがハッキリしないから、じつは政府部内も同然で、やっぱり各役所からの出向者で成っている。
民主主義国家なら、「国会」の下にあるべきものが、じっさいには「内閣」の管理下にあるので、日本版「DS」とは、政府そのものという「建て付け」なのである。
さて、早速だが日本政府は、「火力発電を全面禁止する」国際的な動きに、アメリカと2カ国だけの「反対」を表明した。
かなり強い圧力が、トランプ政権2.0側からあったかと推測する。
来年は、だれが首相なのかしらないが、わが国の政治日程に「第三次臨時行政調査会」の発足が大々的に出てくるはずである。
しかしながら、土光敏夫氏に代わる人物がいない、という民間人材の枯渇が、アメリカ民主党の人材枯渇とおなじく深刻だと国民はしることになる。
そもそも、トランプ氏のカウンターパートは誰なのか?すら、もういない。
とりあえず、安倍晋三氏がこれを演じることができたのは、トランプ氏が何枚も上手の役者だったからではあるが、もう大根役者(腐った大根を食べても食あたりしない=絶対に「あたらない」役者)しかいない現実が、重くのしかかる。
どちらにせよ、来年の参議院通常選挙は、衆議院解散による「ダブル選挙」になることが、固いのではないか?
それでも残念だが、新任のアメリカ大使から、「新政権」になっても手取り足取り、箸の上げ下げまで指導・命令を受けるしかないという、いままでとおなじ構図が残る。
選挙をやる価値が首の皮一枚で残るのは、日本も「小さな政府」にするための自由主義からの議論が起こる可能性がほんの少しはあるからだ。
おそらく、旧来からの既得権益=社会主義側は、これを「新自由主義」といって非難するだろう。
しかし、トランプ政権2.0が、「自由とはなにか」を、原点から教えてくれることになる。
これが、奴隷や家畜になった日本人を目覚めさせるかは、日本人の側にかかっているのである。