いわゆる、「横入り」をすることもふくめて、列に並ぶ習慣がある民族と、できない民族とがある。
エジプトは英国の支配で影響が強く残るが、そのカイロの路線バスに乗るひとたちは、一切列をつくることなく、乗車口に群がって我先にと乗車していくさまは、わたしも毎日のようにみかけていたものだが、これを、ケン・フォレットが、『針の目』でも書いているので、妙に同感するのである。
欧州を中心とした、「史観」がふつうになってしまったのは、造船と航行技術のイノベーションで、他民族を植民地支配することでの「富」がある、という理由からである。
造船技術には、帆船(「帆」をもって風を推進力とした)の発明がふくまれる。
それでもって、丈夫な「帆布」は、ジーンズとなったりバッグになったり、あるいは、学校行事につかうテントになったりしている。
わざとだとおもうけど、古代ギリシア哲学からローマ帝国に歴史の舞台が移って、ローマ帝国が滅亡してもあたかも世界の中心がヨーロッパであったように錯覚させる努力がなされている。
ところが、イスラム世界の大発展が、じっさいはヨーロッパ文明を凌いでいた。
ユダヤ教 ⇒ キリスト教 ⇒ イスラム教 という、同根の宗教の当時の「近代化」で、最後に生まれたイスラム世界が世界の中心になるのは、当事者たちからしたら「当然だった」当然がある。
それが、大反動を起こして、イスラム教 ⇒ キリスト教 に戻って、ポルトガルとスペインが、世界制覇をあからさまにしたら、分家で飛び地のオランダと英国が、待ったをかけていまに至るヨーロッパの基礎をつくった。
人類は、この意味で、列に並べない民族と、よしんば列に並んでも暴力で横入りすることに心が痛まない野蛮人によって支配され続けているのである。
だから、上に書いた、ケン・フォレットの『針の目』における表記は、半分正解で半分はまちがっている。
彼は、紳士の英国人が教育・支配したのに、列に並べないと嘆いてエジプト人を観察しているのである。
日本人からしたら、横入りを当然として富を得たのが「紳士」だったろうに、とおもうからである。
しかし、その日本人も、明治維新で英国人を手本とするやからたちが新政府をつくって君臨したので、「退化」がはじまった。
だから、冗談ではなく、「明治維新」ではなくて、「退化の明治改新」とでもいわないと辻褄があわない。
これを、「長周新聞」が当時の風刺画を載せながらきっちり書いている。
当時の世界覇権国は、英国だったので、まだアメリカの出番はすくないが、この絵をみれば「日英同盟」の意味もとんだ欺瞞だとわかるのである。
その日英同盟を壊したのは、日本代表はなにも発言しなかった、とプロパガンダされて久しい、第一次大戦の戦後処理をやった、「ベルサイユ会議」で、あろうことか、「人種差別撤廃」という、人間としてちゃんと列に並ぶように、英国人に詰め寄ってしまったからである。
これをいわしめた日本人は、江戸時代生まれの「本物の紳士」たちだった。
それで、あくまでも他人には列に並ばせても、自分は横入りをする権利があると思いこんでいる英国とその股分のアメリカ人はこのときから、「仮想敵国」を日本に定め、第二次世界大戦を目論んだのである。
そのためのプロパガンダが、「黄禍論」であった。
あたかも中国人のことのようだが、そうではない。
日本人をもって、「黄禍」としたが、これをアメリカで推進したのは、ウイルソンのアメリカ民主党だった。
いま、この政党がいう「人種差別撤廃」のウソを見破った黒人やエスニックたちが、「民主党は人種差別政党だ」と発言し、トランプ氏支持を表明している。
ちゃんと列に並ぶことが、人類の共通になりつつあるのは、結構なことである。