このところ複数の、またそれぞれにつながりのないひとたちから、まったくおなじ相談を受けている。
個人的な相談なので、べつに相談料をもらえることもないし、聴きようによればただの世間話にもなる。
ただし、掘り下げると、巨大な社会問題がみえてくる、解決困難な相談なのである。
それが、「子供の将来への不安」だ。
相談者によって「子供」といっても年齢に幅がある。
まだ幼児だったり、小中学生、あるいは高校生だったり、はたまた社会人になったばかりという具合なのだ。
共通の事情として、どちらさまも親として「現役の職業人」であるから、職場を通じての生活感とそれが子供世代にどうなるのか?という漠然とした不安だったものが、このところだんだんとハッキリ見えてきて、すっかり絶望的な「将来不安」になったために、他人への言葉にしての「相談」にまでなったようだ。
もちろん統計データでも、わが国の40歳までの死因のトップが自殺であることからもわかるし、自殺者の総数で世界トップレベルだという不名誉どころか不幸が数字にもある。
すなわち、わが国は世界一「不幸になる国」になっている。
これは一種の「設計された社会」として捉えれば、『いまだ人間を幸福にしない日本というシステム』で指摘されたことの意味が、ようやく身にしみてわかってきた、ということなのである。
このような状態から、いかにして抜けるのか?が、重大にして最優先されるべき問題解決のテーマなのである。
けれども、こした「問題の所在」を訴える政治家すらごく少数で、そのような政治家を支持する国民もごく少数だという当然の連鎖がある。
もちろん、こないだの衆議院議員総選挙で多数の議席を得た政党で、この問題提起をしたところも人物もおらず、少数政党が訴えてもこんどは「ブランド力」がないという状態なのである。
つまり、多数の国民は、問題意識もないという不思議があるのである。
たとえば、こんなに得票するという想定もしなかった(これを「マーケティング」の失敗という指摘もない)ので、比例票が他の政党に按分されてしまったのが国民民主党だ。
この政党は、何気に「所得の壁」を上げる政策を主張したことが、予想外に大受けしたのである。
そしてこれが選挙後に視聴率で苦しむワイドショーが話題をつくって、いつも通りの「エセ専門家」による、なんだか細かい議論をしている風情がある。
それでもって、過半数割れした与党との協議になったが、どんどん「骨抜き」にされて、わけわからん、という状態に陥ったのである。
国民民主の党首が不倫していたこととのグチャグチャも加味したようにみえるが、はなから「国家戦略的」な問題提起ではなく、「選挙対策」だったことのメッキが剥げたのである。
しかし、アメリカの大統領選挙では、トランプ氏が「所得税廃止」をとっくに公約にしていたのだ。
しかも、これは思いつきの「軽口」ではなくて、いつものように「裏付け」がある発言なのである
トランプ氏をディすることが、日本メディアのトレンドとして定着してきたが、「経営者」として成功し、ビジネスを通じて大富豪になった彼の言説に、唐突感はあっても、戦略的ではない、という話はほとんどないので注意がいる。
たとえば、グリーンランドとパナマ運河の件もしかり、なのである。
さてそれで、アメリカ合衆国に初めて「所得税」が導入されたのは、南北戦争の戦時中で、戦後、「憲法違反」が問われていったん廃止されている歴史がある。
「租庸調」から習う、日本人の税についての常識が、アメリカ合衆国という「人造国家」には適用されないことも、日本人はしっていていい。
つまり、合衆国憲法に従うことを明言しているトランプ氏の公約は、所得税が憲法違反だと主張しているのとおなじで、わが国の憲法に照らしても重大な疑義が生じることを、とにかく議論しないで些末な議論へのすりかえで隠し、そうやって日本国民を騙すのが政府のプロパガンダ機関となったマスコミならではの活動となって、徴税側の有利さを宣伝しているのだ。
だが、トランプ革命とは、ことほど左様に、あらゆる社会制度が見直しの対象になっておかしくないことを示し、アメリカだけでなく「民主」を標榜する各国民にも促しているのである。
そんな目で日本をみれば、たとえば、むかしは子供を連れて飲酒のための「居酒屋」に入店するものなどいなかったが、いまでは「子供連れ歓迎」となっていて、未就学児童からなにからが席に座って酔っ払いを眺めている。
戦後であっても、まだ日本人が荒っぽかった時代、酒を飲ませる店に子供を連れて行かなかったのは、どんな因縁をつけられるかわからなかったからである。
だがしかし、すっかり「腑抜け」に改造されて、トラブルに巻きこまれることはなくなった。
これは、果たして「いいことなのか?」とあえて問いたい。
こうしたむかしの日本人の最後の姿を、野坂昭如と大島渚がみせてくれている。
日本人にとって、「殴る」、「殴られる」という行為は、日常であったのである。
それで、いまでは居酒屋でも、食事に飽きた子供は、ひとりひとりに与えられた端末を片手に、それぞれが好みのゲームに興じている。
もはや「家族の団らん」さえも遠い過去の記憶になった。
この子たちは、成人してどんな目に遭うのだろうと想像したら、気の毒でならないけれど、そのために「家庭をつくる」こともないのだろう。
むかしの女の子は、将来何になりたいかを聞けば、たいがいが「お嫁さん」といったものだが、おそらくいまのジェンダー教育ではありえない回答にちがいない。
それで、「少子化対策」と称して兆円単位の予算を組む与党は、「少子化を推進」させて、「移民」という名の「奴隷貿易」をはじめ、韓国やら香港やらでは多数の日本人女性が「売春(新からゆきさん)」で逮捕される時代になったのである。
学校教育はとっくに崩壊していて、なにを学んで将来の収入源とするのかさえも、過去からの延長線では間に合わないだろうから、いっそのこと、早い時期から職人を目指した方がよほど充実した人生を送れるのではないか?
それには、社会にどれほどの種類の職人がいるのか?をしらねばならぬが、足りないとずっといっている職人側が情報を提供していないのも不思議なのである。
いまどき、じぶんで作った物の値段を自分で決められるとはえらく貴重なのである。
実家が伝統工芸士だという相談者は、このことを意識していなかった。
ただあまり売れていないぼやきを聞いて育ったことが「仇」となっているようだ。
売りかたも含めた工夫もあっていいことを話したら、国内需要だけの目線なのに驚いたのはこちらである。
ざっと50年後を見据えたら、今までのままでいまの子供世代が、いまの水準で暮らせることはないと断言できる。
ならば、どこの部分にある「今まで」を変えるのか?
おそらく、社会設計を政府がする、という政府の役目を変えることだろう。