還暦を過ぎてからの、「人生初」は、意外と経験しないものだが、「取り皿一枚50円」だけでなく、オンテーブルしない調味料類(醤油や酢など)も「持参せよ」という中華料理店があるのをしって驚いた。
いったいこの店で、どんなことがあったのだろう?と勘ぐりたくなった。
たまたまこの日に待っていた電車が運休になった理由説明が、「お客様どうしのトラブルのため」という駅員のアナウンスが耳に残っていたからであろうか?
注文も、さいきんみるスマホからの「モバイルオーダー方式」であったので、たまたま入店した時間に他の客は誰もいない中で、店員と言葉を交わすこともなくスマホのバーコード読み取りアプリと格闘することになった。
もしやこの店員は日本語ができないのかも?といぶかったが、ぜんぜんそんなことはなかった。
しばらく「バーコードリーダー」が起動しないのでなにかとおもえば、たまたま「バージョンアップ」に対応するのに通信料を払うのにもイラついたのだが、それでバージョンアップしたからといって遣い勝手が向上したわけでもなく、あれこれと余計な入力をさせられるのが不快なのである。
アップルに次いでアマゾンも、便利なはずのA.I.が勝手に起動して、事実上の「盗聴」をしていることが発覚し騒ぎになっている。
そもそも、スマートスピーカーに「オーケーなんとか」とかと呪文を唱えたら、アラビアン・ナイトの「ランプの精」のごとく便利になるとはいかなかったというわけだ。
なお、『アラジンと魔法のランプ』は、オリジナルのアラビア語版『千夜一夜物語』には収録されていない「外典」扱いなのである。
どうして、バーコードリーダーで、こんな「設定」を要求されるのか?の方が、気持ち悪い。
そんなわけで、別にこの店のせいだけでもないが、適当な注文だけで退散しようかとかんがえたが、やってきた料理自体はあんがいと美味く、たまらずに追加注文するに至ったのである。
壁の張り紙に、「店員が自主的に持ってくる取り皿は無料」とあって、それ以外は「一枚50円」とあることに注文後、気がついた。
どうなのか?とおもったが、わたしの場合は特に注文していないのに料理と取り皿が一緒に運ばれてきたから、「無料」であったようだ。
それに、醤油などをあらためてつける必要もない味付けが絶妙なのである。
焼き餃子ならまだしも、水餃子も味がボケていないできなのに妙に感心した。
これは、満州あたりのふつうなのか?どうなのか?
それとも、店主の考案か?
とはいえ、慣れた餃子の食べ方が「酢・胡椒」なので、若干の物足りなさがあることは否めない。
もしも、「シウマイ」や「焼きそば」とかを注文したら、「カラシ」もほしい。
おそらくやっぱり二度目の来店はしないだろうと自分のなかで確認し、店を出た。
後日、この店の前を通って、入店具合を確認したら、あろうことか「満席」の繁盛店なのである。
いがいと若い人が目立ったのは、やはりスマホにて注文することに抵抗がないからか?
念のため世の中はどうかと調べたら、「ヤフーニュース」で賛否両論の話題になっていた。
もちろん、入店客が全員スマホを所持していることを前提としている「サービス」なので、これから外れると入店拒否されるのか?どうなのか?
このところ、チェーン店でみかけるテーブルに設置されているタブレットによる注文さえ、しない、できない、高齢者をよく見かけるようにもなった。
この場合、できない、ではなくて、意識的にしない、の方が正しくおもえる。
口頭で注文する方が、はるかに「楽」だからである。
そんなわけで、この店の「繁盛ぶり」を見て、常連がいかほどの割合で、調味料持参者がどれほどの確率なのか?もしりたくなったが、もう入店しないと決めたから、ただの野次馬根性である。
むかし、横浜中華街のとある大繁盛店では、一グループでの麺類の注文は同じものにまとめるように強制されたり、取り皿の交換はしなかったり、という「すさまじき」店があった。
「麺は単価が安いから」で、そのためにいちいち別の注文を受けていられないというのが理由だったし、これをまた正直にしっかり説明していた。
取り皿の交換は、もちろん洗うのが面倒だから、ひとり二枚までであった。
これまでのわが人生で、この店には二度行った。
二度目は、「確認」の意味であったが、しっかり「サービススタンダード」であることを理解して以来、一度も入店していない。
料理を「エサ」扱いしている店に、支払う気がまったくしないからである。
もういい歳になったから、野次馬根性だけでこうした店に再入店する気がなくなったのである。