個人経営の飲食店を探しては贔屓にすることが趣味でもある。
めったにチェーン店は利用しないが、チェーンと呼ぶのは個人的には、一応100店舗以上ある、ということにしている。
なので、個人経営の店が拡大繁盛して、数店舗をやっているなら、余裕の許容範囲なのである。
関西人からしたら、歴史をいって笑われる「江戸」ではあるが、その江戸からもバカにされるのが横浜で、このブログでも横浜の衰退についてはずいぶんと書いてきた。
元を辿れば、飛鳥田一雄という圧倒的な人気のリーダーが、社会主義・グローバル全体主義者であったことが、衰退の原因だったのだが、横浜市民でこれに気づくものがすくないから、ずっと続く衰退トレンドを変えるものが出てこない。
もちろん飛鳥田氏がひとりでできるわけもなく、彼を支えた社会党と市職員組合とが強力だったし、東京には美濃部亮吉というお仲間が知事をやっていて、このふたりが連携して、横浜から東京に明治開国以来の本社を移転させることに成功した。
それでもって、「みなとみらい」なる、未来のない巨大な再開発計画で、やっとこさ日産自動車の本社を呼び込むのに成功したと、威張ってみせたのだった。
しらないひとがいるかもしれないので、念のため書くが、広大な「みなとみらい地区」は、全部が三菱重工横浜造船所だったのである。
戦後の経済復興が、(優秀な)経済官僚たちによる、「傾斜生産方式」という、特定重工業に資源配分したことが大きな成功要因だったと分析したのは、アメリカ人だったけど、このことは同時に、日本人もすっかり騙されたのである。
経済企画庁の文豪、原田泰氏はその後、黒田日銀の大幹部になったひとであるけれど、ハッキリと「傾斜生産方式」や、「経済官僚」が、日本経済を発展させた証拠データはどこにも見当たらず、むしろ自由な発展の邪魔をしていた、といっていた。
つまるところ、陰謀論的に書けば、いいだしっぺのアメリカ人とは、情報操作をやったのではないか?ということだ。
これになんと、当事者の経済官僚たちも、そうだと信じてさらなる邪魔をしたのが、本田宗一郎に自動車開発を諦めさせようとした有名な嫌がらせである。
いま、ホンダがEVに全面シフトをすると宣言して、エンジン開発どころかエンジン技術そのものを廃棄しだして、おどろくべき赤字も排出しているけれど、わたしは、ホンダ社内にある経済官僚に従わないと受ける数々のイジメが嫌でこうしているのではないか?と疑っている。
なので、ホンダの経営者たちばかりが阿呆なのではないし、株主も、経済官僚たちも救いようがない頓珍漢たちなのである。
そんなわけで、鉄は国家なりの延長にあった、造船業がわが国の輝かしい復興の象徴であったのに、「造船疑獄」とかなんとかで、圧倒的な競争力をおそろしいスピードで失った結果が、横浜造船所の閉鎖となったのである。
ポーランドの自由化に最大の狼煙を上げたのが、グダンスク(むかしは「グダニスク」といっていた)にある造船所で、ワレンサ氏(むかしは「ワレサ氏」といっていた)が労働者たちを率いていた。
いまはこの地は、自由博物館になっていて、埋め立てによってバルト海ははるか先にあるから、まるで陸地に造船所があったのごとく勘違いする。
すなわち、横浜造船所の閉鎖とは、横浜中心部に住んでいた労働人口の激減も意味するのである。
それゆえに、港湾労働者とは別のエリアが衰退した。
そのひとつが戸部エリアで、元は花街だったが火災で港湾労働者のエリアへ移転し、戦後の売春防止法施行まで公娼エリアとしてあったのである。
移転後の跡地エリアにある、元は寿司屋がご主人亡き後、居酒屋としてやってきた。
ほぼ50年の幕を閉じるにあたって、近隣の常連さんたちはざわついているのである。
それはまた、夕飯の台所でもあったからだ。
こういう店がなくなるのは、もう文化の喪失でもある。
効率だけでは計れない、人間生活の基準が沈んでいくのを惜しむ。
28日が最後だが、この日は予約で満杯だと告げられた。
その前に、何回か行っておこうかと思う。