国に追従する地方経済のヤバさ

「サスティナブル」という一言だけでも、それを発するひとの教養のなさを感じるのはわたしだけであろうか?
あるいは、人口減少が著しい地方だから、外国人人材を求める、という国が進めている移民政策にそのまま乗ることも、安易にすぎないか?とおもうのである。

こうしたことを「常識」として地方の経済人が述べているのを見聞きするにつけ、本人の肩書きの「重さ」との比較をして、当該地方の衰退が確実になるのではないか?と懸念する。

この言動のパターンこそ、近代学校教育の単純延長であって、「教科書は正しい」と信じ「暗記」する、あたらしい信仰の発露なのである。
つまり、「国はすべて正しい」と思考することの、「教科書」と「国」の言葉の置換にすぎないことをいいたいのである。

東京の難関大学に入学したエリートの、本人がぜったいに意識もしない「破壊工作」を何の疑いもなく実行できる現代日本がかかえる、内憂、だといえる。
そんな単純能にされた人間が、地方に帰ってきて、中央(国)のエージェントになることでの「地位」を得るのだ。

これぞ、ニーチェが指摘した、あってはならない姿なのだが、むろん、ご当人は授業でニーチェを学んでいても、それは単なる「暗記」の対象だけであって、その真意を吸収し、自己の精神の糧にするなどという面倒はしないし、できない脳構造に子供時分から学校で強制されたことも認識できないのである。

上のことは、ニーチェの『反時代的考察』にある四つの論文のうちの第三論文「教育者としてのショーペンハウアー」に記されている。

なので、こうした人物のヤバさは、一切の事実をみてもみえないことにある。

それで、ありもしない幻想を、ある、として語ることで、影響力を行使するのである。
なぜなら、地方で地位のある人物の語りは、これまた素直に浸透するからである。
「権威主義」の恐ろしいのは、権威ある人間が権威をかざすことだけでなく、一般人がまるで催眠術にかかったごとく丸呑みすることにある。

この「丸呑み」も、幼少時からの学校教育における訓練の成果なのである。

すると、学校に馴染めない生徒を、「登校拒否」といっていた時代から、「不登校」に変遷したのとはちがって、一貫して学校に馴染めない生徒の「まともさ」が光り出す。
しかしながら、近代の学校、とくに公教育では、まともなのは学校である、という定義をぜったいに変えないので、従わない子供に薬を用いるまでになってしまった。

このような地獄絵図の世界では、国が定めたコースからはずれたら救済がない恐ろしさだけがあるために、悪いのは本人である、に強制的に集約される。
つまり、学校とはなにか?が、まもなく問われだすと予想するのは、あまりにも安易な教育が、自己崩壊をはじめるだろうという予測に基づく。

けれども、ひと世代以上が現役として存在するので、気がついても効果があがるには世代が入れ替わるまでの時間が必要になるために、地獄は続くのである。

そんなわけで、地方から壊れていく運命を変えることが困難なのである。

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