「日本を壊すな」という広告が話題になっている。
自民党の広告のことである。
なんだか自民党が日本を守っているという気にさせる文(短いフレーズ)ではあるけれど、破壊の張本人がトボけて厚顔無恥ぶりを発揮していることに、さっそくネットで炎上している。
プロパガンダの鉄則は、こうした短いフレーズを繰り返すことで、聴き手の脳に擦り込むことが行われる。
それが大成功したのは、小泉純一郎の「郵政選挙」での大勝利だったし、これを仕込んだのが、プロパガンダの専門家で学位がある世耕弘成だ。
さて、こないだの衆議院総選挙では、「最高裁判所判事の国民審査」も行われたのに、なんの反応もないのがマスコミだ。
初めて、平均で10%を超える「✖️」がついたのは、ひとつの歴史的な出来事だったし、標準偏差も離れてはいないから、かなりとんがった幅のない状態になっている。
立法府の国会と、行政府の政府は、内閣で一体となるために、いつも批判的な話題になるのはこのふたつの「府」が通常であったのが、とうとう司法府にも批判が集まりだした。
いよいよこれまでの統治システムが溶けだしている証拠なのである。
しかし、日本の司法は、さらに三つの立場に分散化させている建て付けになっている。
・裁判官(裁判所)
・検察官(法務省)
・弁護士(会)
ようは、司法試験に合格したひとたちが、それぞれの道を選ぶようになっていて、ここでも成績順にリクルートされることが横行している。
尊敬をあつめないと、判決に敬意(権威)を得られないという心理から、裁判官になるのは成績優秀者でないといけない、という業界標準がある。
また、定年前に裁判官を辞めたり、検察官を辞めたりしても、弁護士を開業できるし、定年をまっとうしても弁護士を開業できる。
これが、弁護士業界の標準偏差を広げる理由で、そのまま収入の平均値を下げている。
なんとわが国の弁護士の年収平均が、一般サラリーマンより低いという計算になるのは、平均を上回るひとがロングテール現象的にダラダラと続いて、億円単位のひともいるようになっている。
ようは、開業してもあんがいと食えない商売なために、ブラック企業やらの顧問にならないと生活できないのだ。
さらに、最高裁判所裁判官には「枠」があって、裁判官から出世してなるひと、有名事務所の弁護士からなるひと、それと外交官からなるひとがいるために、検事ならやっぱり「検事総長」になるのが究極のポストになる。
外交官からなるのは、「国際法(おもに「条約」)」の専門家ということになっているからである。
ついでに、司法試験に合格しなくとも弁護士になれるのは、大学の法学部教授を規定年数務めたほかに、内閣法制局の参事官以上の役職を連続5年務めて、行政府を無事に定年退職するとなれるいうお手盛りの条件がある。
これでなれるのは、「行政法」の専門家ということになっているからである。
税務署の職員が定年後に税理士になれるのとよく似ている。
そうなると、やっぱり特殊な行政府の役所に、「法務省」がある。
ここのキャリア官僚は、いわゆる国家総合職に合格したひとではなくて、司法試験に合格して検事に任官しないとキャリア扱いされないという、とんがった役所なのである。
「検事」は、法務省の行政官僚なのである。
けれども、憲法上の「司法府」は、あくまでも最高裁判所を頂点にする、「裁判所」になるから、検事総長だって二の次になる。
こないだの「袴田事件」における、現職検事総長の公開された談話は、以上の建て付けに関して真っ向から逆転する、つまり、検事総長が最高裁判所の上位にあるが如くの内容であるという驚愕があった。
「選挙公報」に、犬の散歩が日課だと平気で綴る、最高裁判所判事の情けない姿を思い起こせば、裁判官が検事たちに馬鹿にされるのは若い頃の試験成績の意趣返し(コンプレックス)もあって仕方がないが、それではこの国の司法がもたないのである。
2日、わたしの住む横浜にある、横浜刑務所で「第52回矯正展」が開催された。
小雨のなか、多数のひとがやってきて、刑務所内で生産されているグッズを購入していたが、なんだかこの最高裁判所判事たちの体たらくを思い出すと、受刑者の汗で作られた物品の価値が尊いと思われて仕方ない。
トランプ氏がやってみせた、マックでのエプロン姿や、ごみ収集のジャケットを着ての演説は、その心意気だけで尊敬に値する。
悔しかったら、最高裁判所判事も、検事総長も、刑務所での作業を少しでも経験し、自ら矯正の気概を示してみたらどうか?
自分の選挙集会で聴衆から野次られるようになった末期的状態のカマラ・ハリスは、とうとう宿敵のはずの共和党を追い出されたリズ・チェイニー(典型的な「戦争屋」)を擁護して、彼女を礼賛する発言をおくびもなく繰り出しはじめ、なんとリズ・チェイニーもこれに応じて民主党を強力に支持している。
このひとたちは、戦場で傷つく兵士を、いまだに消耗品だとして、自分たちは暖かく快適な部屋にいて、私服をこやすための戦争を仕掛けている。
これと相似形の発想が、わが国の「司法」をおかしているのである。
近代憲法をいただくことを「法治国家」と定義するなら、わが国は、もう法治国家でもなんでもなく、国民が放置される国家になって、エリートを自称するひとたちの天国になりつつある。
まったく、江戸時代が羨ましくなることが、目撃されるようになったのである。